弐の6




「ところで、そちに余を狙う呪咀をはねのけられる力があるというのはまことか?」

 普通は家臣の中でも偉い人が話を元に戻すのだろうが、ここでは一番落ち着いているのは家斉だったらしく、自ら話を元に戻してみせた。はい、と志之助はあっさり頷く。

「私は確かに一介の天台僧にすぎません。ですが、呪咀を掛けた側もおそらくは天台の僧侶。となれば、私ごときにも対抗する術がございます」

「ほう、一介の天台僧、のう。余はそちが陰陽師であり密教僧でもある天台の修業僧と噂に聞いたが、偽りであったか」

「おや。どなたでしょう、そのような極秘事項を上様に申し上げた馬鹿者は」

 否定はせず、からかうように志之助は軽口を叩く。恐れ多くも当代将軍様の御前での言葉とは、とうてい思えない。松平定信には、志之助のこの不思議な度胸の根がわからず、混乱するばかりであった。

 軽口を叩きはしたが、心中で志之助はかなり驚いていた。というのも、天台宗の僧侶の中に、志之助の正体を知っていて、しかも疑いもしていない者がいるということにとにかく驚いたのだ。そして、その触れ込みを信じたこの将軍の並はずれた分析力と精神力にも驚いていた。

 もちろん、将軍自身に謁見し、こんな常識はずれの能力者の話をできた者、という時点で、寛永寺の和尚か比叡山の高僧あたりであろうとは想像がつく。しかし、だからこそ驚いていた。

 まず、寛永寺の和尚、という選択肢は真っ先に弾かれる。何しろ、志之助の法名すら知らない人間だ。ありえない。

 となれば、残るは比叡山の高僧だが、志之助が比叡山を飛び出したということからもわかるとおり、彼らはかなり頭が固い存在である。見た目より辛抱強い志之助が逃げ出したのだから、よほど頑固な者の集まりなのだろう。

 事実、志之助が心から信用できた肩書きを持つ僧侶というと、二年前に亡くなった現天台座主の弟だけだった。師匠ですら心からは信用できず、それどころかその人間性に呆れ返っていたくらいなのだ。

 したがって、志之助の異能を将軍に伝えるだけの柔軟性と志之助に対する信頼を持った者というと、志之助にはまったく思いつかない。

 該当者がいないこともない。志之助が唯一信頼していた僧侶ならば、ありえないわけでもなかった。

 しかし、将軍に志之助のことを伝えるためには、志之助が比叡山を旅立った今から三年前以上前に将軍に会っていなければならない。心当たりのある僧侶は、志之助とちょうど同じ頃に比叡山を出たものの、それより以前の数年間は志之助に五日と空けず頻繁に会っていた。将軍に話のできる機会がないだろう。

 そして、志之助が陰陽師であり密教僧である天台修業僧となりえた十八才の時分より以降に知り合い、その後江戸に来たことがある者というと、その僧侶は当てはまらず、それどころか一人も心当たりがないのである。

 そう考えていて、ふと志之助は頭をあげた。思わずあっと声を上げる。

「まさか、竹中紅寿殿?」

 公儀御庭番、竹中紅寿。彼ならありえる。そう思ったとたん、声に出していた。くっくっと家斉が笑っているところを見ると、当たったらしい。初めて聞く名前に、征士郎は首を傾げるばかりだ。

 竹中紅寿と志之助の出会いは六年前。志之助がちょうど二十二歳のときだった。仕事に失敗し、傷だらけになって比叡山に逃げ込んだ紅寿を最初に見つけたのが志之助で、紅寿の尋常でない様子に何を悟ったか、寺の者には一切会わせずに看病し、さらには仕事まで手伝ってやった仲であった。

 紅寿の能力は並みよりは一枚も二枚も上手であったが、どうやら失敗した原因は相手の量の多さであったらしい。志之助の加勢を得て、あっさり仕事を片付け、いつか借りは返すと約束して江戸に帰っていったきりであった。

 志之助とは妙に馬が合い、当時は今の征士郎との仲と似たような雰囲気があったものである。

「覚えておられたようだぞ、竹中」

 家斉がどこへともなく話しかける。すると、音もなく襖が開き、その向こうに男の影が見えた。黒い衣裳を身にまとい、その骨格から男だろうとわかる。公儀御庭番、隠密集団の一員である、つまり忍びの者だ。髷を結わずに頭上できつく結っている。

 家斉の許可を得て光の当たる場所にやってきたその顔から、かなりの色男であるとわかった。志之助が二十二歳のときすでに一人で仕事をしていたことからもわかるように、もうすでに三十も半分をすぎた年令であるが、年の割に若く見える。志之助も、この年になってもあまり変わらないのだろう。その見本のような姿だ。

「お久しぶりです、祥春殿。お元気そうで何より」

 志之助の法名を知っている。征士郎でさえ今まで二年も付き合ってきて今日初めて知ったというのに、だ。出会った場所が比叡山であったからなのではあろうが、征士郎としては少々嫉妬心を覚える事態だった。志之助はそんな征士郎の気持ちに気づいているのかどうか、紅寿ににっこりと笑みを見せている。

「すみません、紅寿殿。今の今まで、すっかり忘れていました」

「おや、それは残念。せっかくの借りを踏み倒す機会を自分で潰してしまいましたか」

「あ、踏み倒すおつもりだったんですか?」

 ひどいなあ、と心の中で言っていた声が、征士郎には聞こえていた。聞こえたというよりも、そう言っているだろうと征士郎にはあっさりわかるのである。二年という年月は伊達ではない。

「私も、上様より祥春殿のお手伝いを仰せつかりました。なんなりと御言い付けください」

「はじめて、よろしいのですか?」

 確認の言葉は将軍家斉へ。任せる、との答えが来ると、さっそく志之助はそこに立ち上がった。

「せいさん。仕事、半分になりそうだよ」

「俺はいいから、天狗たちの仕事を減らしてやれよ。そのくらいはできるんだろ、隠密なら」

「うわあ。せいさんってば、もしかして拗ねてる?」

 立ち上がった志之助にしたがって立ち上がった征士郎をつれて、無駄口を叩きながら志之助は庭に面する廊下までの途中の襖をつぎつぎに開いていく。勝太郎は先に頼まれていた仕事をしに別の襖を開けて部屋を出ていった。残された松平定信と将軍家斉、そして竹中紅寿の三人は、その場所にとどまって遠く離れていく二人を見送った。紅寿はおそらく、彼ら三人を守るために残ったのだろうが。

 四つの襖を開けて、ようやく庭の見える廊下に出る。それぞれの部屋が縦に五間以上ある。距離も相当のものだ。

「この距離で、足りるか?」

「せいさん、刀、置いてきたでしょう?」

「そんなドジに見えるか、この俺が。帯刀禁止だって持ってくるさ。この非常事態だ」

 ほれ、と見せたのはいつのまに包んだのか、布で巻かれた長い棒。征士郎愛用の刀であったらしい。心外だ、というような表情をする相棒を見て、志之助はさもおかしそうに笑いだした。それと同時に、征士郎の意外な度胸に感心していたりする。

「で、足りるか? 呪咀とはいえ、修羅神かもしれんと言っていただろう? ならば、この程度の距離、あっという間に通り過ぎてしまう」

「んー。まあ、仕方がないでしょ。これ以上奥までは望めないよ。たぶん、この屋敷の大きさから見ても、あの場所が一番奥だと思うし。あとは、せいさんの反射神経に頼るしかない」

「……俺?」

「そ。せいさん。ばしっとぶったぎってくださいな。神仏だろうと遠慮はいらないから」

 頼りにしてるよ、と征士郎の肩を叩いて、志之助は自分の懐に手を差し込む。思ってもいなかった大役に、征士郎はしばらく呆然としていたが、やがて、武者震いを感じたかと思うと、叫び声をあげた。

「うぉっしゃあっっ!!」

 志之助の式神と化している五十八匹の烏天狗たちは、すでに顔見知りとなっている征士郎の奇声に驚いて、一斉にばさっと翼を広げた。





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