弐の5




 店の戸締まりを済ませ、留守を加助とお菊、それにおつねに頼んだ志之助と征士郎は、勝太郎の住む屋敷に向かった。

 勝太郎はここまで来るのに乗ってきて裏に繋いであった馬に乗って、先に屋敷に帰っている。着替えてすぐにでも参内するだろう。もうすでに眠ってしまっているかもしれない将軍を叩き起こさなければならない。勝太郎の心労ははかり知れないものがあった。

 もし将軍が相手にせずに勝太郎を追い払い、しかも降格を命じられたら、と征士郎は不安になって志之助に問いかけた。屋敷へ向かう途中である。月夜の割には暗い夜だ。

「勝太郎殿には申し訳ないけど、もしそうなったら将軍もそれまでの人だったということだろ。別に俺は困らない。困るのは、追い払う将軍本人だから」

「いや、しかしだな。職を失って石高まで減らされたら、いくら使用人のないうちだとしても、家計が火の車になってしまうぞ」

「もし、だってば。ないよ、それはきっと」

「何故、また?」

「勝太郎殿に破格の出世をさせた人だもの。人を見る目はあるとみた。となれば、後は夜中に叩き起こされて聞く耳を持てるかどうかだよ。降格になっても、以前の職場に戻されるだけさ。気分だけで、あれだけの人材を切り捨てるほどの馬鹿将軍なら、そもそも勝太郎殿の起用なんてしないって」

 自信満々で、志之助はそう言い張る。こう言われると、そうかなと思ってしまうから不思議だった。志之助はたしかに霊能者ではあるが、予言者ではない。説得力だけで何の根拠もないわけである。

 志之助は、長屋に帰ってからも着替えずに、そのまま出てきていた。したがって、まだ法衣姿である。錫杖が地につくたびに、暗い夜道に音を響かせている。きれいな黒髪に真っ黒な服で、まるで志之助の身体は闇に溶けてしまったかのようだ。

 なあ、しのさん、と征士郎はまた話しかける。

「上様にお会いして、何と言うつもりなのだ?」

「ん? 今回の呪咀のこと?」

「二年前のことだ。追求されるだろう?」

 ああ、あれ?と答えて、志之助は黙り込んでしまう。考えていなかったわけはないだろうが、あっさり答えられない何かがあるのか。征士郎はかなり不安な目で志之助の返事を待った。ところが。

「そういえば、考えてなかったな。どう言って誤魔化そう」

「……しのさん。それはもちろん、冗談であろうな?」

「いや、本当。どうしようか。何か、いい案ある?」

「あるわけがなかろうっ」

 怒鳴られて、志之助は軽く肩をすくめ、こんな大事な時だというのに、余裕げに笑いだした。征士郎には、頭を抱えてうずくまることしかできなかった。




 歩いていては時間がもったいない、と、早馬を駆ってきた使いの家来は、もう一頭の馬を連れていた。これに乗って急いで来い、ということらしい。

 征士郎も志之助も、まともに馬に乗るのはこれが初めてだった。この中村家には馬場はないし、比叡山の僧侶、しかも見習いが馬に乗せてもらえるはずはない。この状態で見事乗りこなしてみせたら驚きなのだが、と勝太郎は少々不安にはなっていたらしく、家来にもし無理なら有髪僧だけでも同じ馬に乗せてこいと命じていた。

 馬に乗る自信はちょっとなかった志之助は、連れてこられた馬を見上げて、征士郎を困った顔で見やった。馬とはすぐに仲良くなれる。人間でも動物でも、すぐに理解しあえてしまうのが志之助の特技のようなものだ。だが、その背に乗るとなると話は違ってくる。

「乗れそう?」

「わからん。乗ってみるか」

 征士郎が試しに手綱を掴んで鞍に手をかけた。初心者は乗り方がまずわからないもの。志之助は馬を宥めるように顔を撫でている。何とか乗れたらしい。

「せいさん。手を離すよ」

「おう」

 暴れるなよ、と征士郎は心の中で祈るように呟いた。軽く手綱を引くと、馬は征士郎の気持ちをくんだらしく、ゆっくりと歩きだす。庭を一周して戻ってきて、征士郎は少し自信がついたのか、志之助に手を差し出した。

「おいで、しのさん。行こう」

「二人も乗って、大丈夫かなあ?」

 言って、志之助は馬の目を見つめる。それから、征士郎の手に捕まった。どうやら馬のお墨付きをもらったらしい。

 志之助の体重はかなり軽い。なんといっても、征士郎が片手で持ち上げられてしまう軽さだ。痩せすぎという意見もないではないが、とにかくあっさりと乗せられてしまった。錫杖も危なくないように手で持って、いざ出発。

 使いの家来に先導されて、一行は家を出た。家の門は志之助の式神に閉めさせ、ついでに留守番も命じて。誰もいないのにひとりでに門が閉まったのを見た家来は、自分の目を信用しないことで平静を保ったらしい。

 そんなちょっとしたトラブルもあり、二人は勝太郎と将軍の待つ江戸城本丸に辿り着いた。特例も特例で二人揃って奥座敷に通されると、将軍の待ちかねたような視線の下、深々と頭を下げる。

「して、具体的に何が起こると申すのだ」

 気が逸ったか、もともとその気はなかったか、二人に面をあげる許可を出さないまま、将軍は声をかける。志之助は黙ったまま、征士郎が代わりに志之助に教えられたとおりに答える。

「江戸の城下には百鬼夜行がはびこり、城中は流行り病、上様には呪咀によりお命を落とされますでしょう。今のうちに手を打たねば手遅れになるものと思われます」

「まことか、中村」

「御意。この僧の申すことに偽りはございませぬ。もし嘘偽りを申したとならば、この中村、腹かっきってお詫びいたす所存にございます」

 その間、志之助はずっと平伏したままだった。ようやく将軍から顔をあげる許可が出、平伏したまましゃべっていた征士郎ともども顔をあげる。

 当代将軍家斉は、まだ歳若い青年であった。おそらく、志之助や征士郎より随分と年下だ。しかし、その年齢に負けない迫力を持ち合わせた、立派な若武者のようだった。なるほど、老中の強引な改革案を受け入れただけの事はある。

 その将軍が、征士郎と勝太郎の兄弟の言葉を信じたらしく、真面目な表情で問いかける。その相手は、まだ一言も声を発していない、長髪の僧侶だ。

「何故、わしが狙われているとわかった?」

「ある商人の失踪事件に首を突っ込んだところ、その背景に上様の暗殺計画があることを知りまして。私としては別に、上様がどうなろうと知ったこっちゃなかったんですけど、親友の兄君の上司となれば話は変わります故」

「こら、しのさんっ」

 慌てて、小さく押さえた声で征士郎が志之助の暴言を咎める。志之助はただ、軽く笑ってみせただけだった。権力というものは大嫌いな志之助である。本心を偽れるはずはなかったらしい。

 志之助の堂々とした態度に、将軍家斉はしばらく押し黙って、それから豪快に笑いだした。

「そうかそうか。わしがどうなろうと知ったことではないか。なるほど、将軍家お抱え僧侶も蹴飛ばした者の台詞よ。ははっ。ますます気に入ったわ。どうじゃ、今からでも遅うはない。わしのお抱えにならぬか?」

「う、上様っ?」

 慌てたのは同席していた老中、松平定信である。勝太郎は家斉の豪胆さに改めて舌を巻いた。征士郎はただただびっくりしている。当の志之助はというと、どうやらこの将軍を気に入ったらしい。くすっと笑った。

「やめておきましょう。私などを抱えたとなれば、上様の御名に傷が付きまする。それに、もう二度と仏門に戻る気はありません。僧侶でないものを抱える理由はありませんでしょう? 知り合いという程度に留め置きくださいませ」

 にっこり笑って、志之助はあっさりと断る。仏門から去ったと聞いて、さすがの家斉も驚いたようだが、やがて、仕方がなさそうに溜息をついた。





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