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 二日ぶりに帰ってきた真壁家で。

 迎えに出た常子は、菜箸を片手に、そのまま固まってしまった。

 そこにいるのは、紛れもない、志之武本人である。
 昨日送り出した時と同じ格好で、同じ小さな袋を下げ、三つ編みのシニヨンが普通のシニヨンになっている程度の、そのくらいの変化しかない。ないはずだ。

 そこにいる志之武は、明らかに、昨日までいた志之武とは違っていた。かなりすっきりした表情で、まっすぐ常子を見返してくる。
 昨日までの志之武は、笑ってはいても目は暗く沈み、人と話をするときでも目を見ることは絶対になく、常に何か辛いものを背負っている雰囲気を隠せずにいる、そんな青年であったはずだ。それが、心配を誘っていたのだが。
 今の彼は、頼りがいある歳相応の立派な青年である。何がこの短期間にそれほどまでに彼を変えたのか。常子は驚いてしまうしかない。

 志之武を連れて帰ってきた勝太郎は、反対に不機嫌だった。
 玄関を閉めて、まず真っ先に、喉下に止めておいた言葉を吐き出す。

「志之武君。そんなに叔父さんを信用できなかったか?」

 それは、卑屈とも取れる、恨みがましい台詞であった。
 そんな台詞を吐くことに、常子はさらに驚いている。この旦那は、そんな言葉を言ったことは、今まで一度だってなかったのに。

「彼を、征士君を探していたんだろう? そのために、あんなに辛いことにも耐えてきたんだろう?
 言ってくれたら良かったんだ。私だって、松安殿の愛弟子の名くらいは知っている。言ってくれていたら、真っ先に話を通したのに」

「叔父さん」

 とがめるように、語気強くそう遮って、志之武ははんなりと笑った。見ているこちらが、思わず穏やかになってしまう、不思議な笑い方だ。
 それは、志之武の独特の笑い方でもあった。ただし、今回は、いつも見え隠れしていた「困ったような」感じがない。

「玄関先ではなんですから。ちゃんと説明します。
 状況の方が先に進んでしまって、落ち着いている時間がなかったから、言わなかっただけなんです。
 とはいえ、あの時点ではそんなに詳しい話はきっと僕は出来なかったでしょうから、怒られても当然かもしれないけど。
 聞いていただけますか?」

 それは、どうやら何事かの重圧から開放されたらしい今だからこそ言える真実で、それを説明するということは、それだけ信頼しているということを意味していて。
 勝太郎は、頷いて客間へ入っていった。常子さんも、と誘いをかけて、志之武が後に続いていく。

 事態の変化に対応しきれずにぼうっとしていた常子は、慌てて台所に入って火をつけっぱなしのコンロの火を消すと、二人が待っている客間へ急行した。

 志之武と勝太郎は、そこに向かい合わせに座っていた。
 勝太郎が、常子が現れたのに気付き、自分の横に促す。志之武も、そこを勧めた。

「さて、何からお話したら良いのか……」

 そんな切り出し方で始めた志之武の話は、その場で信じるには余りにも突拍子もない、陰陽道に携わる人間だからこそ、思わず否定してしまうような、そんな話だった。

 志之武が、今日相棒と認められた青年、征士とはじめて会ったのは、幼稚園の頃。場所は東京都上野、不忍池のほとりであった。
 その日、父親が寛永寺へ仕事に出てきたため、一緒に連れて来られていたのだ。
 近くまで連れてこられたものの、仕事の現場には絶対に入れてくれない父親は、志之武を不忍池に置き、絶対に動くな、と命じて出かけていっていた。
 征士と会ったのは、丁度その時である。

 何しろ、前世の恋人だ。しかも、相手から「絶対に見つけ出して見せるから」などと嬉しい台詞をもらっては、志之武ももちろんその気になる。
 両想いであることを、すでに幼稚園児のうちに確認していたのだ。後は、自由に動ける年齢になるまでに、自分の力を育てておけば良いこと、のはずだった。

 予定が狂ったのが、中学生のときだ。
 愛する恋人の足を引っ張らないように、遊ぶ間も惜しんで修行に励んでいた志之武を奈落の底に突き落とした出来事。
 それが、父親の慰み者になる、そのことであった。

 ここで注目すべきなのは、征士は運命で自ら決めた「恋人」なのである。
 親友、相棒、無二の友、などとはわけが違う。その人だけを、愛しているのだ。
 そんな心を、再起不能なまでにずたずたに引き裂いたのが、父親のその行為である。

 はじめの頃は、その度に抵抗した。受け入れられるわけがない。

 ただ、ここでもう一つ注目すべき観点が存在する。
 それは、そんな非道を働くその相手というのが、実の父親である、という事実なのである。
 最後に、抵抗できなくなってしまう。それは、実の父親である、そんな認識のせいだった。
 愛している恋人と秤にかけて均衡してしまうほどの、そんな相手なのだ。父親というものは。

 従って、志之武が選んだ手段が、自らを封印する、という禁じ手だったのである。
 何をされても、何も感じない。そうすれば、自分の心は痛まずにすむ。良識に苛まれることもなくなる。
 今はそばにいてもらえない恋人に、呵責を感じる必要もない。

「だからね。会えなかったんだ。せいさんには。
 会ったら、きっと自分は自分ではなくなっちゃう、そう思ったから。
 ま、今回の件ではそれどころじゃなかったんだけど。
 あの人を目の前で失うなんて、そんなこと、自分の命と引き換えにしたって出来なかったから。
 助けられるんだから、それは、四の五の考えている余裕なんてなかったから」

「とぼけ通すつもり、だったのか?」

「知られたくない。父のおもちゃになってたなんて。そんなこと」

 はっきり、恥ずかしげもなく、そう返す。
 だが、そのすぐ後に、志之武は、くすっと嬉しそうに笑ったのだ。

「そんなことじゃないかと思った、だって。
 気にしない、って。そう言ってくれたんだ。
 前も、彼に初めて出会う前は、男たちのオモチャになって、そうやって生きてた人間だったから。
 また、そんな苦労してたんだろう、って。助けてやれなくてごめんね、って反対に謝られちゃった。
 父親に抱かれるなんて、人の倫理を無視する行為を、何年も何年もしてきた人間を、それでも愛してくれるんだ。
 せいさんってそういう人。
 忘れてたわけじゃなかったんだけど、でも、自分は自分が許せなくて。
 勝太郎さんにせいさんのことを話さなかったのも、自分自身がせいさんを想うことを許してあげられなかったから」

 それは、勝太郎に話す必要がない、そんな判断をする材料として充分すぎるもので。
 勝太郎を裏切ったわけでも、だましたわけでもないのだ。
 まず、自分が、受け入れられなかった。それだけだったのだ。
 二日前にはじめて麟子の元へ連れて行ったときに見た、無表情の仮面を被った志之武は、そんな事情があったからこそのものであったらしい。

「今は、もう大丈夫なの? 過去が変わったわけではないし」

 その話は、実は常子にとっては初耳なことばかりで、今の晴れ晴れとした志之武の表情に、心配そうな目を向ける。
 夫がこの美人な甥をどうしても引き取りたがった、本当の理由がわかった。
 今まで良く掻っ攫ってこなかった、と自分の夫を誉めてやりたい気分だった。
 だからこそ、こんなに急に吹っ切った甥っ子が、心配になってしまう。
 父親の脅威がなくなって、運命の恋人を再び手に入れた、それだけの変化が、この10日ほどの間に立て続けに起こっている。
 そんな急激な変化に、気持ちがついて来られているのか、不安になってしまうのだ。

「だって、彼がこだわっていないのに、その彼に知られることだけを恐がってたんだから、もう必要ないでしょう?
 それより、もう、楽になりたい。
 せいさんに守ってもらえるから。
 もっともっと強くなりたい。
 中学生のときに、父に初めて犯されたときに、止まってしまった時間を、進めたいんだ。
 もう、そばにいるんだもの。恐いこと、ないんだもの」

 それに、と続けて、志之武はそこで言葉を切ると、にっこりと嬉しそうに笑うのだ。





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