弐の3




 いったいどこへ行く気なのか、志之助は迷わず山の奥へと進んでいく。征士郎はその後をわけもわからず追いかけていった。錫杖を地につくたびに、相変わらず心地よい音が聞こえてくる。二人の足元からは、踏みしめられる砂利の音がしていた。

 やがて、征士郎が口を開く。

「どこへ行くのだ?」

「近江屋さんのお墓へ。そこへ行く近道で目撃したとお菊ちゃんは言っていたでしょう? ということは、そういったあたりにあることは間違いないんだ。なら、その軌跡をたどれば何かわかるかもしれない」

「ふむ。しかし、いつまでもその場にとどまっているものか?」

 ただでさえ、目撃者を少なくとも一人、取り逃がしているのだ。少しなりとも頭の働く者なら、もうすでにその痕跡は消して、どこか別の場所に移っているはずなのだ。いつまでも一ヶ所にとどまっているというのは、利口なやり方ではない。だが、志之助のことだ。そのくらいはわかっているだろう。

「呪法を行なっていた痕跡というやつは、そう簡単には消せないのさ。目で見てわかる程度なら簡単に隠せるだろうが、俺の目を馬鹿にしちゃあいけないよ。呪咀なんてものは、強ければ強いほど、地に念が残るものなんだ。それを、見つければいい」

 呪法を行なっている時点で、志之助の目から逃れることは無理に等しいらしい。呪咀というのは、簡単に言えば、その場の気の力を借りて他人を遠くから操る、呪うことをいうのだ。その場の気の量を測ればおのずとどこで何が行なわれたかわかるという仕組みである。そういう気読みができる人間にのみ、できる方法ではあった。微妙な変化なので、そう簡単にはわからないのである。

 一定間隔でシャランシャリンと音がしていたのだが、やがてその音が止まった。志之助の足が止まったのである。呪法が行なわれた場所がそこなのだろうか。だが、その付近に堂はなく、お菊の証言と少々食い違っている。

「どうした?」

「……手遅れ、かな?」

 志之助は、錫杖を持った手とは反対の手を征士郎に差し出した。握れということらしい。征士郎は、霊力はかなりある方なのだが、いかんせん霊視力がほとんどないのである。その征士郎の『目』を補っているのが志之助の力だった。志之助が手を貸すことで、自力で霊やあやかしの類を見るというからくりだ。

 征士郎がその手を取ると、志之助は錫杖を持ち上げて、ある一点を示した。そこを追いかけて目をやって、征士郎はかろうじて出かかった声を押さえる。そこには、どうやら刀で斬られたらしい大きな傷をそのまま人前にさらしている、無残な姿の幽霊が浮いていたのである。

「……あ、あれは?」

「たぶん、近江屋の番頭さんだよ。だよね?」

 その幽霊が頷いたのが見えた。ということは、志之助の声が聞こえているということであり、幽霊ではあっても地縛霊でもなければ我を失った霊でもないということだ。

 霊がこの世にとどまる理由は、九割程度の確率で思い残すことがあるということである。思い残すことといっても色々で、仕えた先の家の将来に思い残しをしていることもないわけではない。番頭の幽霊は、どうやら主家を心配してこの世に残ってしまっているらしかった。それならば、我を忘れることはないだろう。

 幽霊が口を開いてぱくぱくとする。何かを訴えているらしいが、征士郎には聞こえない。

「何と?」

「大旦那、生きてるって。呪法が行なわれたところにも連れていってくれるってさ」

「そこに犯人もいるのか?」

「いない。もう場所移ってる」

 そうか。多少落胆した様子で、征士郎は溜息をついた。志之助の方は、それでも捜査に進展があることは評価できると考えているらしい。何にでも首を突っ込んでいくくせに、征士郎は慎重派で、志之助は悲観思想派なのである。不思議なコンビだ。

 着いたのは、近江屋の先祖の墓があるという一帯のすぐそばにある堂の前だった。

 番頭の霊は、そこに辿り着いて深々と志之助に頭を下げ、消えてしまう。上野山の中にいるだけでも死霊にとってはかなり苦しいのだ。そのうえ堂塔に近づきなどしたら、強引に成仏させられてしまう。思い残したことがあるままあの世に渡るのは、輪廻転生の考え方によれば、あまり好ましいことではない。現世に名残を残せば、未練に引きずられて、後世まともな人生を歩めなくなってしまう、というのが定説である。実際その通りで、番頭も自分の身を護るために消えたのだろう。

 堂の中には、仏像が一体置かれており、人の気配はなかった。少なくとも、この日は一人としてこの堂に近づいていないはずである。ということは、近江屋一行に見られた彼らは、その逃げた者に言いふらされてはまずいと判断し、堂から逃げ出したものらしい。

「どうだい?しのさん」

「……厄介だな」

 一言そう呟いて、志之助は黙り込んでしまった。

 出会った頃はそれこそ、志之助が一人で考えて好き勝手に行動し、征士郎は振り回されてばかりだったが、相棒として認めあってからはまったく無かったものである。それが、珍しく志之助は何も言わずにただ考え込んでしまっている。

 何か問題が起きたのか、下手に口を開けない何かがあるのか。今までは聞かなくても状況説明をしてくれていただけに、征士郎は不安で仕方がない。

「……しのさん?」

「せいさん。昨日、勝太郎殿、昇進したって言ってたよね?」

 昨夜訪ねてきた征士郎の兄、勝太郎のことである。

 以前大奥付きのお役目を持っていた彼は、今や将軍の秘書のような立場になっていた。時の将軍、徳川家斉様のおぼえもめでたく、つい最近昇進したものであった。かなりの特進である。それについてはまわりからも誹謗中傷の声が聞こえてきているのだが、将軍自ら勝太郎の取次にしか応じないほどの信用であり、実力もそれなりに備えているものだから、表立っていじめられることもなくすんでいる。

 それがしかし、今の現状とどう関わるのか、征士郎は志之助の言いたいことがつかめなくて首を傾げた。

「直参旗本の身分のうちでは、かなり将軍様に近い立場だよね?」

「両手の中には入るだろうな。それで、兄上がどうかしたか? ……まさか、どうかしたのは上様の方か?」

「ご名答」

 察しのいい人に説明すると簡単で済んで嬉しい、とわかるようなわからないようなことを言って、志之助はそれにしては真剣な表情で後ろを振り返った。

 太陽の位置と現在の時刻などを鑑みて、ちょうど志之助の背後が南西にあたる。この堂の仏像が、真っすぐ南西を見つめていた。そちらには、天下の江戸城があるのだ。

「まさか、呪咀にこの仏様を使ったんじゃあなかろうな?」

「そのまさかでしょ。世の中に存在するものはすべて二律背反。この世の何かを守るものなら、呪咀に使えば効果倍増っていうわけだ」

「仏に仕える者のやることか」

 呆れた声で、征士郎は呟いた。それから、溜息をつく。

「まったく、しのさんに付き合ってると、僧侶って奴が信じられなくなるな。しのさんがまともに見える」

「いや、俺はもともとまともだけど……」

「どこがだ」

 う。返す言葉もなく、黙り込んでしまう。そんな相棒を見やって、やっと征士郎は笑った。

「それで、どうするのだ? とりあえず、帰るか?」

「そうだね」

 答えて、志之助は懐から紙を一枚取り出した。短冊状の白い紙である。中央に藤と書かれていて、かすかに藤の花の香がした。志之助の式神、藤香の依代である。

 こうして携帯していることで、裸の霊として存在する必要がなく、藤香にとっても志之助にとっても楽というわけである。藤の花の霊である藤香に楽と感じることができるのかどうかは定かではないが。

 無造作に志之助がそれを宙になげうつと、紙はひとりでに燃え上がった。それきり何も起こらない。どうやら、監視役に飛ばしたらしい。

 何もない空中に、ここにいて堂を見張っているようにと言いつけると、志之助は征士郎と並んで歩きだした。小高い上野山を下りていく。





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