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志之武が自由な時間を得られるのは、夜の8時以降、翌朝5時までである。
普通は寝ている時間だが、志之武はその時間帯、行方をくらますことがあった。
二三子に言わせれば、それ自体が、彼の本当の能力を物語っている、ということになるのだが、もう、彼女は誰にも何も言わなかった。そのくらい、可愛い坊ちゃんの好きにさせてあげたかったのである。
行方をくらましている間、彼はどこに行っているのかというと、それはなんと、自主勘当した叔父、勝太郎の家であった。
勝太郎自身の家は東京にあるのだが、時々京都に仕事で戻ってくるので、こちらにもマンションを借りているのだ。
志之武は、その部屋の合鍵を預かっていた。叔父が用意してくれた、逃げ場なのだ。
灯台下暗しというか、父親も、まさか土屋家を捨てた弟のところに逃げ込んでいるとは思わないらしい。今のところ、見つかってはいなかった。
その日、珍しく勝太郎が来ていた。
勝太郎も丁度帰ってきたところであったらしく、志之武を出迎えたとき、背広を脱いで椅子の背もたれにかけ、ネクタイを緩めているところであった。
「おう、志之武君か。久しぶりだね」
「お久しぶりです。叔父さん」
勝手知ったる他人の家、というよりは、すでに自分の家も同然のこの部屋で、志之武は部屋に上がって真っ先に台所へ入っていく。手早くインスタントコーヒーを淹れて、ダイニングにやってきた。
その頃には着替えを済ませていた勝太郎が、トレーナーにGパンというラフな格好で彼を迎える。
「この辺では、もう桜も散ってしまったんだねぇ」
「吉野はまだ綺麗でしたよ。昨日、夜桜を見てきました。いつかは昼間に行ってみたいなぁ」
今の環境では無理なことを分かっているから、志之武はすでに諦めに似た表情でくすくすと笑う。
そんな甥を、勝太郎は常々不憫に思っている。
いつかは、助けてやりたいのだ。兄の魔の手から。だが、今はまだ、自分にその力がない。
実は、今している仕事も、本当は甥を助けるための下地作りだった。
表と呼べる大家、土御門家の門下に入り、仕事を手伝っている。
最近ではその力を認めてもらえたらしく、重要な仕事が回ってくるようになったし、来週はなんと、当主に見える約束を取り付けた。もう少しなのだ。
実際、勝太郎は志之武の能力の低下を、大変もったいなく思っていた。
潜在的な力は、歳をとるにつれ、どんどんあがってきているのが分かるのだ。なのに、それを使おうとしない。育てようともしていない。
中学生までは、他の友達と遊ぶことより大事なことだ、と言わんばかりに頑張っていたのに。きっと何か目的があって、だから頑張っているのだ、と一度聞いた覚えもあるのに。
それすらも、今ではどうでもいいことのように彼は振舞う。
それはもう、土屋家とは縁の切れた自分の前でさえそうするのだから、きっと自分で忘れようとしているのに違いないのだ。
原因は、おそらく。
猫舌の志之武が、自分の淹れたコーヒーをふぅふぅと息をかけて冷ましている姿を眺めて、勝太郎は盛大なため息をついてしまった。
それに、驚いたのだろう。丸い目をした甥っ子がじっと見つめる。
「どうしたんですか? ため息なんてついちゃって。仕事、うまくいかないんですか?」
「いいや。もう一押しでおしまい。明日には帰るよ。そうではなくてね」
志之武のことを考えていた。そう、この子に教えてよいものかどうか。それすらも躊躇ってしまう。
余計な心労はかけたくない。辛い思いをしているのは良く分かるから。
そばで助けてあげられないのだから、せめていらない気苦労は取り除くように。勝太郎に出来る最大の思いやりである。
「奥さん、御元気ですか? 結局、陰陽師の仕事をすることになって、心配してらっしゃるでしょう?」
「そうだね。まぁ、どのみち私はこの仕事をするしか能のない人間だから、仕方がないさ」
違う。妻も、心配しているのは自分ではなく、この甥だ。
事情はすべて話してあって、いつか引き取るつもりだとも言って、了解はすでに取ってある。
志之武とは個人的に会ったこともある妻は、すでにその日を楽しみにしていた。
二人の間に子供がいない。だからこそ、余計に待ち遠しいようで、実の叔父としては嬉しい限りだ。
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