人魚村 1




 その日のうちに川崎に着こう、と志之助は意気揚揚と先に立って歩いていた。

 川崎といえば、征士郎の生まれ故郷だ。前回はただ通り過ぎるだけであったが、急がない旅だし、江戸を目前に急ぐこともないと余裕があって、今回は一日ゆっくり故郷を散策しようと話をまとめていたのだ。

 そもそも、生まれ故郷など持っていない志之助だ。相棒である征士郎の故郷を、自分のもののように思うのも、仕方のないことだろう。

 楽しそうな志之助を追って、征士郎ものんびり歩いていた。母はもうこの世にいないが、久しぶりの里帰りだ。故郷の村には幼い頃に世話になった村人が大勢待っていることだろう。そう思えば、楽しみは膨らむばかりだ。

 ともかくもう日暮れ時。生まれ故郷には生家もすでになく、とりあえず宿場で宿を取って、明日改めて故郷の村に戻る予定にしていた。




 川崎宿。江戸を出て二番目の宿場町であり、多摩川のほとりにある東海道に数多くある難関のうちの一つである。

 何故川崎が難関かといえば、その前に横たわっている多摩川のせいだった。六郷の渡しという。舟で渡る川だが、富士川と同じくかなり川幅が広い。

 東海道は人通りが多い。たいてい上り道を利用する者といえば江戸を目指しており、あちこちから集まって来る江戸行きの人々は、この川崎で密集するという運命にある。

 しかし、多摩川の渡し舟には限りがあった。つまり、渡し舟に乗るために一苦労するのである。

 順番を待たなければならない。かといって、ずっと船着場にいても退屈なだけである。しかし、一度船着場を離れると次の舟に乗り損ねることはたびたびで、舟に乗る間合いがけっこう難しいのだ。

 もともと川崎っ子の征士郎は、そんなことを苦笑混じりで話しながら、志之助の隣を歩いていた。

 川崎っ子といっても、征士郎の出身は川崎宿から少し離れた漁村の方だった。通っていた寺子屋が川崎にあったためよく知っているだけの話である。

 懐かしの川崎宿を歩きながら、征士郎は昔話を隣の志之助に語って聞かせている。所々見つけた旅篭に立ち寄って、満室と素気なく追い返されながら、そうしていると、とうとう川崎の宿場を通り過ぎてしまった。

 船着場ではすでに舟が陸につながれて、今日の渡しが終わってしまっていることを告げている。振り返ると、宿を取れなかった人があちこちで途方に暮れていた。

「ああ、もうそんな時間だったか。もうどこも空いていそうにないな」

 話では、日が落ちる前から川崎では毎日のように旅篭は満員御礼になって、人が軒下にあふれかえるのだという。

 野宿が嫌なら、無理にでも最終の舟に乗るか、渡し舟があるうちから早々に宿を取るしかないという。困った宿場町である。

「どうするね、しのさん。野宿するなら、良い掘っ立て小屋を知っているが」

「へえ、どこにあるんだい?」

 どんな掘っ立て小屋でも屋根があって雨露が防げるならいい、というように志之助は地元民である征士郎を見返す。征士郎はにやりと笑ってみせた。

「昔、俺がガキの頃に仲間たちと作った秘密小屋でな。海岸にあるのさ。あれだけ目立つ秘密小屋も珍しいだろうが」

 こっちだ、と先に立って歩いていくのを、成人してから知り合ったせいもあって、征士郎の腕白な少年時代など想像もつかない志之助は、なんとも楽しそうに追いかけていった。




 やってきた掘っ立て小屋は、子供が作ったにしてはしっかりした小屋だった。

 屋根はこの海風にあたっていても、穴が所々開いている程度で、壁も頑丈だ。本当に子供が作ったのか?と志之助が思わず聞いてしまう出来だった。

 征士郎は、この小屋があまりにもいい出来なので、村の大人たちが漁のための道具小屋にしたのだ、という話をして笑っていた。子供時代の征士郎が当時の仲間たちとともに子供だけの手で作ったものであることには間違いないらしい。

 彼らはそこに藁をしいて、波の音を子守歌に眠ることになった。

 その夜、丑の刻ごろだろうか。征士郎はふと目を覚ました。波の音に交じって、かすかに何かが聞こえる。女の声のようだ。歌っているのだろうか、節がついているらしい。

 隣に眠る志之助を起こさないように起き上がった征士郎は、刀を手に小屋を出た。
 暗い海の上に欠けた月の光が一筋の光の帯を作りだしている。遠くには上総の国の影が見える。波の音に交じって、やはり女の歌声が聞こえていた。

 ゆっくり声の方へ近づいていった征士郎は、砂浜の中にぽっかりとある岩場の上に人影を見付け、刀に思わず手をかけた。その人影の歌声だったらしい。きれいな声だ。刀に手をかけたまま、征士郎は彼女に近づいていく。

 岩場まであと少しというところまで来て、征士郎は首を傾げた。

 月の光を頼りに目を凝らす結果から見て、どうも彼女は着物を着ていないようなのである。こちらに背を向けているせいで顔は見えないが、岩場まで触れるほどに長い髪を少しも結わずにおろし、その黒い髪のはしに見える肩はやわらかそうな撫で肩である。足が不自然に光って見えるのは気のせいだろうか。

 腰の刀に左手をかけたまま、征士郎は声をかけようと姿勢を正した。

 その肩に触れるものがあって、征士郎ははっと振り返る。それは、志之助の手だった。

 志之助の首がゆっくりと横に振られて、征士郎は抗議するような目を志之助に向ける。志之助はかすかに聞こえるような声でささやいてきた。

「あれ、人魚だ。繊細な生きものだからね。あまり大きい声を出すと逃げられてしまうよ」

「人魚だと? あの、肉を食らえば八百年生きられるという、あれか?」

「食うかい?」

「八百年も生きる気はないが……」

 本当か?というように志之助を見つめ、やがて征士郎はその女に目を向けた。すると、あの足のあたりに光ったものは、鱗というものだろうか。どう見ても裸体の女なのだが。

「もう少し近づいてみればわかるさ。行ってみよう」

 さあ、と征士郎を促して、志之助が音をたてないように歩きだす。

 近づくにつれて、征士郎は志之助の言葉に頷くことになった。

 たしかに人魚であるらしい。足に鱗が光っている。腰のあたりから、人間の皮膚が魚のそれに変わっているようだ。それにしても、なんと美しい髪か。

「もし?」

 隣で声がして、征士郎は思わず立ち止まった。志之助が人魚に声をかけたらしい。

 人でないものにこうやって平然と声をかけられる人というのは、知り合いの中では志之助ただ一人である。自分一人だったら、こんなにやさしい声は出なかっただろう。

 志之助の声が聞こえたらしく、その人魚はゆっくりと振り返った。そこで、征士郎は驚いて声を上げた。

「おまささんっ!?」

「せいちゃんっ!!」





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