弐の2
ここに来るのは、二人とも二年ぶりだ。この上野山の中を、走り回った日が懐かしく感じられる。あの時は、やはり事件の犯人を捜し回っていた。まさか、志之助の唯一心を許していた知り合いを死なせることになるとは思わなかったが。
あの時以上に、志之助が征士郎の存在をありがたく思ったことはなかった。彼がいなかったら、志之助は今頃この世にいなかったか、とっくに荼吉尼に身体を奪われていたか、いずれにしてもいい結果にはなっていないはず。
本堂の場所はわかっている。志之助は真っすぐそこを目指した。この山の中でも奥まったところにある、案外小さな建物がそれだ。建物の大きさと霊験とは関係がない。さすがに本堂なだけあって、建物自体に神聖な気がある。
この場所まで、二人は奇異なものを見る目で見つめられてきていた。それはわからなくもない。志之助は僧侶、征士郎は浪人、一番似合わない組合せだ。さらに、格好は修業僧のままで、髪を長くのばしていて、それなのに錫杖を手に携えている。寺仏に関わる人間なら、それがどんなにおかしいことか一瞬でわかるはずだ。
それでも途中で咎められなかったのは、この二人がまとっていた雰囲気のせいだろう。鬼気迫るというべきか、とにかく生半可な心持ちでは声をかけることもできない。それどころか、近寄ることすらできなかった。上野山に錫杖をつく音が響き渡る。
本堂の前で箒を持って立ちつくしていた小坊主に、志之助は頭を下げた。
「私、旅修行をしております祥春と申します。和尚様にお会いしたいのですが、取次ぎお願いできますでしょうか」
「……は、はい。少々お待ちくださいっ」
箒もそこに放って、小坊主はあわてて本堂の中に駆け込んでいく。苦笑して、征士郎が放られた箒を拾いあげる。そうして、志之助を振り返った。志之助が庭の端に植えられた庭木の一つを指差すと、箒はひとりでに宙に浮いて指差された方へ飛んでいった。
二人についてきた野次馬根性旺盛な僧侶たちは、開いた口が塞がらない。いくらなんでも、箒がひとりでに浮き上がる、しかも飛ぶなど、信じられるわけがない。少なくとも人ができることではないだろう。この僧侶は神通力を得たのだろうか、などと阿呆らしいことを呟く僧侶もいる始末だ。志之助は人に見えない式を使ったにすぎない。
「祥春?」
「俺の法名」
「……あったのか?」
「そりゃ、あるよ」
顔を近づけて、ぼそぼそとしゃべる。驚かれて、志之助は苦笑してしまう。そりゃあ、あるだろう。幼い小坊主にだってあるのだから。志之助ほどの力があれば、修業僧だといってもないほうがおかしい。
「あ、あの……」
本堂の方から声がして、二人はゆっくりそちらを見やる。先程の少年がそこに立っていた。
「ご案内します。どうぞ」
「ありがとう」
にこっ、と志之助が自覚するうちで一番の笑みを見せ、征士郎を促して後を追いかけた。
通されたのは本堂も本堂、本尊の目の前だった。ここで待てと言って小坊主は立ち去っていく。志之助は正座をして、征士郎は胡坐をかいて、用意されていた座布団の上に座る。
「この御本尊は、何の仏様だ?」
「さあ、何だろうね。俺、仏像だけは今だに覚えきらなくてさ。大日様かお釈迦様か」
「知識量はすごいのに、意外だな」
「お堂にこもるより外歩き回ってたから」
仏像を見る機会が少なくて覚えていないというのが志之助の言い分だ。それに、と言い訳はまた続く。
「もともと仏像を作って崇めるなんていうのは、この世のすべてに行き渡っている、ただそこにあるだけの尊いものに姿形を与えて、人間たちが自己満足するためだけのものだもの。その証拠に、姿形がころころ変わる仏様もいるくらいだ。大日如来様はこの宇宙そのものだ、っていうのが元だからね。それに姿も何もないでしょ? そういうこと」
「だから覚えなかったのか?」
「いや、姿形は物覚えが悪いだけだよ。人の顔と名前もそう簡単には一致しないくらい」
覚えても問題はないんだけどね。と志之助は苦笑した。まあ、志之助の修業の動機を考えればわかる話ではある。仏像の形など覚えても、法力増強には役に立たない。
「お待たせいたしました。祥春殿と申されましたか……」
私が和尚ですと声をかけながら近づいてきた和尚は、志之助が彼を振り向いたのを見て、そこに立ち止まった。知らない仲ではないのだ。二年前に会っている。あまり良い別れ方ではなかったが。
あなたは、と口が動いて、そのまま反応がない。志之助は彼を見上げ、にっこりと笑ってみせた。
「どうぞお座りください。立ったままでは話もできません」
「……あ、あなた。祥春などと名を偽って、恥ずかしくないのですかっ!」
「偽っていませんよ。以前はこの名を名乗らなかっただけの話です。志之助は、俗名ですから」
どう考えたって、そうでしょう?と志之助は悪怯れもせずに言う。確かにその通りではあった。たいてい法名ならば音読みであるし、之助、衛門、吉、丞などというありふれた名はつかないものだ。志之助という法名など、見たことも聞いたこともない。
「お聞きしたいことがあり、参上いたしました。無礼は承知の上です。山に報告なさるならばなさればいい。逃げも隠れもいたしません。ですが、もう帰る気はありませんので、抵抗はさせていただきますが」
「……何が聞きたいと申される?」
「この寺院内で何事か呪咀らしきものが行なわれたようですが、心当たりは?」
「無礼を申すでないわっ! 我らは仏に仕える身、民を救うが使命ぞっ。何故呪咀など行なわねばならん!」
「ならば、他人に見られては不都合な物事など何も行なわれてはおらぬと?」
「無論じゃ! わかったら早々に出て行くがいい」
二度と顔を見せるな、無礼者。といったようなことが、和尚の顔に書いてある。二度と顔を見せるなと言われるのは、かなり志之助にとっては嬉しいことなのだが、和尚は気づいていないらしい。
しかし、和尚が知らないということは、一部僧侶の間でのみ行なわれたことということだ。
寛永寺に所属している僧侶たちは、寛永寺と幕府に守られてもいて、和尚や幕府役人の元でその不正を暴かなければ、私闘と処理されて志之助にも刑が下る。いくら物好きとはいえ、志之助とて他人のために命をかけるほどの馬鹿ではない。つまり、やはりもう一度この和尚の前に出なければならないらしい。気の重い話だ。
「一つご忠告申し上げます。この寺院内で何やら呪咀らしき邪法が行なわれているようです。それも、偶然目撃してしまった一般の弔問者を抹殺せねばならぬ程のものです。あなたが知らないのであれば、この寺の中にいる何物かの仕業でしょう。お気をつけください」
返ってくるのは呪咀を行なった人とともに、この敷地全体でもあるでしょうから。
他人に見られたからといって簡単に返ってくるような呪咀ではなくとも、一般に呪咀というものは失敗すれば呪者に返る。それも、少なくとも倍の威力を持って。そうなった時、寺そのものに被害が及ぶ可能性も無きにしも非ず。どころか、おそらく八割方類が及ぶはずなのだ。用心するに越したことはない。
立ち上がった志之助に数瞬遅れて、征士郎もその場に立ち上がる。そうして、さっさと出ていく志之助を追いかけた。御本尊にだけは礼をして。
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