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 それで?

 征士郎は、富士山が愛鷹山によって見えなくなった海岸線を歩きながら、志之助を見やった。

 富士川の増水も嘘のようにすうっと引き、船頭や近隣の宿場町で困っていた人たちからわずかばかりの礼をもらって、二人は川の向こう側を歩いていた。

 目の前には高くそびえる箱根の山が見える。

「あの蜘蛛姫の旦那というのは、いったい何なんだ? 人間ではないだろう? いくらなんでも」

 先に行く志之助を追いかけながら声をかける。志之助は征士郎が追いつくのを待ってやって、楽しそうに笑った。

「知りたい?」

「知りたいから、しのさんに聞いているのだ。当たり前だろう?」

 ふふっ、と志之助はなぜか笑っている。

 そんなに楽しいことを言ったか?と征士郎は首を傾げた。

 それとも、蜘蛛姫の旦那がおもしろいものなのだろうか。

「山男、っていう、毛むくじゃらの化物だよ。ちょうど、不精髭生え放題になったせいさんみたいな奴」

「何だかひどい言われようだな」

 怒る気にもなれず征士郎は頭を引っ掻く。どうやら、志之助はその山男と征士郎を頭の中で並べて、笑っていたらしい。

「それにしても、あの蜘蛛姫が相手では、大きすぎやしないか?」

「山男も結構でっかいしなあ。でも、自己呪かけてなければ、蜘蛛姫もきっともう少し小さくなれるはずだよ。あやかしなんてもんは、たいてい変幻自在なんだから」

 何だか、取って付けたような話だな、と呟いて、征士郎は軽く肩をすくめた。志之助はそんな征士郎の反応に楽しそうに笑っている。

「しかし、また聞き慣れない言葉が出てきたな。自己呪とは何だ?」

「その言葉通りの意味だよ。自分で自分に呪をかけるのさ。旦那に気遣ってほしかったんだろうね。涙が止まらなくなるという呪をかけて、世間様に迷惑を掛けることで旦那の気を引こうとする。気持ち、わからなくもないでしょう?」

「……ふむ。かなり傍迷惑な話だが」

 困ったように頷く征士郎に、志之助はまた笑いだしてしまう。

 しばらく黙って歩いて、征士郎はまた疑問に思ったことを持ち出した。志之助はまだ笑っている。そろそろ苦しそうだ。

「蜘蛛姫というのは、何故わかったのだ?」

「ああ、富士川の蜘蛛姫ってけっこう有名なんだ。二、三百年に一度の割合で夫婦喧嘩して、そのたびに富士川増水させてるから。富士川でいきなり雨も降らないのに増水したって聞けば、ぴんとくる話なんだよ。あんまり下世話な話が関わってくるから昔話にもならないんだけどね」

 曰く、人間である旦那との性交渉に不満がある、またはその逆。曰く、旦那の浮気またはその逆など。子供に語って聞かせてもぴんとこない話ばかりで先人も語る気にもならなかったようだ。

 おかげで、前回の夫婦喧嘩を知らない人間たちは、毎度毎度大騒ぎをするのだという。その度に比叡山から下りた行脚僧が静めていたらしい。今回はそれが偶然志之助だったというわけだ。

 いつもであれば、事件が風の噂で比叡山に伝わり、そこから僧が下りてくるまでの間何もしていなかったというから、今回は非常にこの土地の人にとっては幸運だったのだろう。

 それはもちろん、蜘蛛姫にとっても。

 なるほど、事情を知っていれば慌てようもないくだらない問題だったらしい。

「それを知っていてあえて黙っていたということは、俺を驚かそうとしたのだな、お前」

「あ、なんかせいさん最近鋭くなってきた。うーん、おもしろくないぞっと」

 こらっ、と怒ってみせた征士郎の腕から逃げて、志之助は笑いながら砂浜を走っていった。

 この男、もう少し頼ってみてもいいかもしれない。志之助との旅に不満を抱き始めていた征士郎は、逃げていく子供みたいな志之助を追いかけながらそんなことを思っていた。もう少しくらいは。

 その「もう少し」とは、いったいいつまでのことなのか。この時の征士郎にはまだ知る由もない。





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