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 目の前に広すぎる川が横たわっていた。富士の山のふもと、土地の人はこの川を富士川と呼んでいる。

 征士郎と志之助は、河原に立ってその川を見ていた。征士郎は困ったように、志之助は楽しそうに。近くには人も大勢いて、二人と同じように川を見ていた。その中には舟を漕ぐはずの船頭も見受けられる。

 まだ日も低い位置にある、朝早く。あまり身形に気を使わないらしい征士郎は、ざらりと不精髭のある顎を撫ぜ、ふうむと唸った。志之助はそれを見やり、どうする?と尋ねてくる。

「どうするも何も、寝床を確保するためとか言って、依頼を引き受けたのはお前さんだろう、しのさん。何か策があったのではないのか?」

「だって、どうせこの川を渡らなきゃいけないんでしょ。見事に正当な取引じゃない。結局なんとかする羽目になるんだから」

 でしょ、と微笑まれて、征士郎は苦笑した。

 この志之助という男、根っからの遊び好きであるらしい。楽しいことにはどんな厄介事だったとしても自ら首をつっこんでいく、そんな男だった。

 騒ぎに巻き込まれたのは、付き合いはじめて五日としか経っていないというのにこれで四回目だ。しかもこの三日間続けて。狙われているとしか思えない。

 しかし、騒ぎに巻き込まれていることで、志之助の力もわかってきた。

 見た目弱そうなその身体で、木の上を走ったりという忍者のようなことは楽にやってのけるし、古武術を会得しているという自己申告は本物で、技はしっかりと相手をとらえる。

 その上、比叡山で僧正の声を直接聞くほどに身分もあるらしい法力の強い僧侶なのだ。そのうえ、陰陽師であり、真言密教の僧侶でもあるらしい。

 その志之助に声をかけられた征士郎は、何の変哲もない浪人者だった。
 自分でそれを理解しているから、何故志之助に声をかけられ共に旅をしているのかわからなかった。どちらかというと、足手纏いにさえなっている。

 自分でなくとも、もっと強い剣客もいようものなのに、何故妾腹の似非侍の自分を誘ったのだろうかと、最近真剣に悩み始めていた。

 それを志之助は知っているようだったが、なぜかそのまま放っておかれていた。

 何か言ってくれれば気持ちもおさまるのだが、志之助は自分で考えろとばかりに、そのことにだけ首を突っ込んでこない。他のことには、ずけずけと立ち入ってくるのにである。だからなおさら腹が立つのだが。

「なんとかしてくだせえよ、お侍さま」

 近寄ってきた船頭に言われて、征士郎はああと答えながら川を見やった。

 視線の先に、ぷかりと浮いた渡し舟。川の流れにも乗らずその場にとどまっているのは、それがどこかにつながれていることを意味していた。

 つまり、川が増水してしまっているのである。この上流の方で土砂降りでもあったのだろう。水の色も茶色く濁っている。

 これではどうにもならないだろうに、志之助はその船頭の依頼を引き受けていた。法力でどうにかするのだろうと思い志之助の好きなようにさせているのだが、志之助は一向に何かしようとはしない。

「おい、しのさん……」

「し。黙って、せいさん」

 ぽん、と志之助の肩に手を置いたとたん、ざわざわしていた周りの人の声がすっかり消えてしまった。

 志之助が何かしたのだろうか、まわりの人間の唇は動いているところを見ると、自分の耳がおかしいらしい。志之助は人差し指を口の前に立てる。

 口をつぐんだ征士郎の耳に、かさかさと虫の歩く音らしい音が聞こえてきた。何だ?と眉を潜め、征士郎はその音のする方を見やった。志之助が征士郎が見やったほうを真似して見る。

「ありがとう、せいさん」

 見つけた、と笑って、志之助は何事か唱えだした。

 肩から手を離すタイミングを逃しているうちに、なぜか志之助の方から征士郎にしがみついてくる。

 唱えている間にも、かさかさいう音は大きくなった。それは川の中から聞こえてきているようだったが。

 突然志之助が呪文を唱えるのをやめてくすりと笑った。

 志之助がこういう笑い方をしていい結果になった試しがない。この笑い方が出たときは、志之助にとっては楽勝な問題ということらしいのだが、なぜか事は悪いほうへ悪いほうへ大きくなってしまうのである。

 征士郎はまるで条件反射のように眉をひそめた。そんなに嫌なら一緒に旅をしなければ良いのだが、それでもそばにいてしまうのだから不思議な縁である。

「ちょいとそこゆく美人なお姉さん。隠れてないで出といでよ!」

 まるで吉原で客引きをしている下男のような言葉遣いに、征士郎はしかし驚かなかった。

 いつものことなのだ。

 他の僧侶だとか陰陽師だとかは、かしこみかしこみだとか南無何とかかんとかと唱えるが、志之助の場合、そんなしちめんどくさい言葉はまったくなし。つまり、言葉はどうでもいいということなのだろう。

 しかし、型破りもここまでくれば立派なものである。これで術が見事に決まっているから、よく神様だか仏様だかが怒らないな、と逆に感心してしまう。

 とにかく、志之助の術は完璧だった。志之助の身体が征士郎から離れると、やはり志之助の力のせいだったらしく、急に外界の音が耳に入ってくるようになった。それでも、あのかさかさという音は消えない。さらにどんどん近づいてくる。

「おい、しのさん。一体何なのだ」

「し。黙って」

 いつになく真剣な目で睨みつけられて、征士郎は口をつぐんだ。

 音はどんどん大きくなっていく。その場に居合わせた旅人や地元の人の耳にも聞こえているらしく、大混乱になりかけていた。

 どうせなら混乱してくれたほうがいいんだけど、と志之助はまるで他人ごとのように言ってのける。それは征士郎も思っていたので咎めないでおいた。志之助が真剣な顔をしていたせいかもしれない。

 やがて、その音が蜘蛛の歩く音だったのだとわかった。

 八本足の巨大な黒い虫が川から志之助の方に向かって上ってきたのだ。

 まず足の関節が見え、それが半分ほど見えたところで胴体が出てきた。顔のあるはずの場所には、なんと女性の顔がついている。蜘蛛の、ではなく人間の女性の。

 右の足の長いところから左の足の長いところまで、いったい何尺あるのだろう。志之助と征士郎が一本になって寝転がってもまたがれそうな大きさだ。

 足元には、かなりの数の蜘蛛を従えている。大きいものから小さいもの、真っ黒なものから色鮮やかなものまでさまざまだ。

 蜘蛛が顔を出した時点で、河原に集まっていた人々は、我先にと一目散に逃げ出していて、そこには志之助と逃げ遅れた征士郎と巨大蜘蛛しかいなかった。

 その蜘蛛は、たしかに美人なお姉さんといえば言えなくもない顔をしていた。当然、顔だけだ。何しろ胴体は蜘蛛なのだから。

 志之助はそれが蜘蛛だとわかっていたのだろうか。蜘蛛の頭についた悲しそうな女性の顔を見上げ、にっこりと笑いかけた。

 蜘蛛の女性の顔が口を開く。

『私を呼んだのは貴方様ですか?』

「いかにも。どうなされました、蜘蛛姫殿。河が埋まるほどにお泣きになるとはただ事ではない。よろしければ訳をお聞かせ願えませんか?」

 蜘蛛姫?

 征士郎は驚いて首を傾げた。

 この蜘蛛には名前があったのか、というよりも、それを志之助は何故知っているのだろう。蜘蛛姫などという名は聞いたことがない。

 それに気になることはもう一つある。

 志之助は河が埋まるほど泣いていると言ったが、この女性の顔は涙を一粒もこぼしてはいないのだ。いったいどこからこの蜘蛛が泣いているという話になるのだろう。

 しばらくじっと志之助を見つめていた蜘蛛姫は、やがて意を決したように目を閉じた。

『私の夫が人間の女性と浮気していることがわかりましたの。私悔しくて悔しくて夫がいない間中泣き暮らしていましたら、涙が止まらなくなってしまいました。皆さんには申し訳ないと思っていますのよ。でも、私には止められなくて……』

「どうすれば止められます? お手伝いしましょう」

 蜘蛛姫の言うことを全面的に信じたのか、優しげに微笑んで志之助はそう提案した。

 驚いているのはそばで呆然と打ち明け話を聞いていた征士郎だけである。というより、驚くだけの人材がないだけなのだが。

 蜘蛛姫はすがるような目で志之助を見つめていた。

『過去に人斬りを経験した、妖気を含んだ刀で、私の涙を断ち切っていただきたいのです。さすれば涙も止まりましょう』

 なるほど、と頷いて志之助は征士郎を見やった。ふいにその耳元に唇を寄せる。ふっと息を吹き掛けられて、びくっと征士郎は飛び上がった。

「なぁにをぼぉーっとしてるかな、せいさんは。そんなふうに口開けてると阿呆みたいにみえるよ」

 言ってくすくすとひとしきり笑い、志之助は再び真面目な顔をする。

「せいさんの刀って、血ぃ吸ったことある?」

「うむ。俺も何度か人を斬ってるし、随分古い刀だからな」

「じゃ、手伝って」

 否とは言えるはずもなかった。手伝わなければこの先道中どんな嫌がらせを受けるかわからないし、それに今ここで川を渡れないのは非常に困る。

 征士郎は渋りながらも頷いてやった。

「しかし、涙などどこから流れているというのだ?」

「あ、蜘蛛姫のホントの顔って、逆なんだよ。こっちお尻」

 な……!?

 こんな美人の顔を尻に飼っている大蜘蛛とは一体……。

 心の中で脱力感に見舞われつつ独り言を呟いて、征士郎は蜘蛛姫に顔をこっちに向けるようにと言ってやった。涙が見えなければ斬ろうにもどこを斬って良いやらわからないというものだ。

 蜘蛛姫は恥ずかしがりつつ身体を逆転させた。なるほど、確かにこちらはまともな蜘蛛の顔だ。

 水が流れ出ているそこが目なのだろう。これだけ涙が滝のように出ていれば、河が増水しても当たり前かもしれない。

 一言蜘蛛姫に声をかけて、征士郎はえいやっと掛け声をかけ、刀を振りおろした。

 ざっぱーっん、という音を立て、流れ出る滝のような涙は刀に断ち切られ、その先から水が流れてくる気配はなかった。





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