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中で話しているのは、結界を崩すにはどこを攻めたら有効かということだった。
今までに、三回失敗している。すべて志之助に邪魔されたことも知っていて、だからこそ、志之助の足止めにと散々呪詛を送ったにもかかわらず、すべて返り討ちにされた。その志之助が、江戸入りしていることはわかっているのだ。
だがしかし、志之助は彼らの企みを止めるために来たわけではなく、あくまで将軍に呼ばれてのこと。
命を奪うつもりもない彼らとしては、志之助に邪魔されないうちに、陰謀を成就させてしまうしかない。彼らの話はその一事に終始した。
志之助は、自分が涙を流していることに気がついていた。
相手が台玄律師であるのなら、志之助を敵に回せばどんなに厄介かを知っている。その、知っている、という事実を隠しもせず、どうやって裏を掻くか、と話し合っているのだ。志之助自身、唯一といえるほどに信用していた相手であっただけに、裏切られた印象は拭いきれない。
征士郎はその気持ちまでは理解できなくとも、泣いている姿に心を打たれたらしく、志之助の肩を抱き寄せ、勇気付けるように優しく叩いた。まるで、鼓舞するかのようでもあった。
ふと会話が途切れる。話が終わったようには思えない。足音が近づいてきた。気づかれたか?
「誰だ、そこにおるのはっ!」
バンッと扉を開けて、顔を出したのは台玄だった。
志之助と征士郎は、階段の下に降りてそこから扉を見上げた。征士郎は欄干にもたれて、志之助は腕を組んで。
涙目になっている志之助の顔を認めて、台玄は驚いた表情をした。志之助が江戸に来ていることは、今までの会話から察せられたが、上野山にいて、陰謀を知っていて、台玄の元まで辿り着いていたとは、まだ把握できていなかった。
「志之助……」
「どういうことなんですか、台玄様。あなたがまさか、江戸の結界を壊そうとなさっていたなんて」
自分には、問答無用に彼を罰することなどできなかった。
やればできるのだ。人を殺すことも、造作もない。将軍家に対する謀反を意味するこの大罪には、死を以て罰とすることも、当然決まっているのだが。
せめて理由が知りたかった。それが死を以て償うしかない大罪であることはこの台玄も知っているはずで、そこまでしてしなければいけない理由があるならば、それを知りたかった。この台玄をそこまで思い詰めさせた理由を。
「どういうことですか」
黙ったまま答えない台玄に、志之助は問い詰めた。
否定してほしい。結界を壊そうとなどしていないと、台玄の口で否定してほしかった。絶対に嘘はつかなかった台玄である。その人が否定してくれたら、どんなに疑問があろうと納得しているだろう。
だが、台玄は観念したか、大きな溜息をついた。
「やはり、そなたに術などかけるべきではなかったな。それが元で、我らの企みに気付いたのであろう?」
「台玄様……」
悲しそうな志之助の声に、多少心の痛んだ表情を見せた台玄だったが、しかし、ふっと笑ってみせた。
「私は天海和尚が嫌いでね」
「そんなこと、知ってます。でも、だからって命をかけるほどのことですか?」
「私には、命をかけるほどのことなのだよ」
そう言い切ると、彼は本堂へ入っていった。それではさっぱり意味がわからない、と志之助は首を振る。台玄は振り返ってもくれない。
その台玄の横を擦り抜けた影が一つ。
「お前さえいなければぁっ!!」
頭に印を付けられた僧が、叫びながら走り出て来た。狂ったように目を血走らせ、その手には仏具であるはずの独鈷杵が握られていた。
人に突き刺そうといわんばかりのその格好に、台玄が驚いて後を追い掛けてくる。その後ろを慌てたように数人の顔も見たことのない僧侶が追い掛けてきた。
印を付けられたその若い僧は、真っすぐ志之助に向かっていった。目茶苦茶に雄叫びを発しながらのその行動に、征士郎が思わず腰の刀に手をかける。志之助はその僧侶の攻撃を避けつつ、征士郎に首を振る。寺の中で殺生はいけない。征士郎も辛うじて抜かずに、かわりに志之助を助けにそちらへ走り寄っていく。
志之助に逃げられて、向きを変えた彼は、先程よりもさらに恐ろしい形相で志之助に向かっていった。
「うわあああぁぁぁっっ」
志之助は、目の前に影が出来たことに驚いて、不意に逃げ損ねてしまった。ぎりぎりで避けてやりながらその首筋を払って気絶させて、と思っていたのに。
ずぶり、という不吉な音がして、志之助はその影が台玄の後ろ姿であることに気づいた。手に血糊をべったりとつけて、若い僧は放心してしまったように呻いている。ぐらりと志之助の方へ台玄の身体が倒れてきて、その腹に独鈷杵が深々と刺さってしまっているのが見えた。
「た、いげん、さま?」
今目の前で起こったその事実が理解できなくて、志之助は言葉がとぎれとぎれになっているのを自覚しつつ声をかける。台玄は、身体を支えてくれている志之助に笑いかけた。
「? 台玄様?」
「これで良いのだよ、志之助。私はもうすでに狂ってしまっていたのだ。理屈などない。ただただ狂っていただけなのだ。こう静かに狂われてはお前も困ったろうな。すまないね、志之助。お前を困らせるつもりはなかったのだ。結界を、壊してしまう前に決着をつけることが出来て、本当に良かった」
「台玄様……」
「悲しむのではないよ。お前のせいではないし、誰のせいでもない。これも自然の摂理なのだ。わかるね?」
いい子だ。幼子に言い聞かせるようにしてささやいて、台玄は目の前にいる愛しい子の目に浮かんだ涙を拭ってやった。志之助は嫌々をするように懸命に首を振る。
「江戸結界を破壊するよう頼んできたものの名を教えよう。お前の手で、終わらせておいで。泣かないで、志之助。お前に泣かれてしまうと、私が兄上に怒られてしまうよ」
背中に征士郎の雰囲気を感じて、志之助はぽろぽろと涙をこぼした。困ったように笑って、台玄はそれを拭いてくれる。
「もう、こんな茶番は終わりにしよう。お前を巻き込んでしまって悪かったね、志之助。お前は、幸せになりなさい。良き友の元で、良き主君の下で、働く喜びを知ると良い。兄上も、それを望んでお前を旅に出したのだろうからね」
「台玄様」
「お行き、志之助。この茶番は、これで終わりだ。幕引きをお前に託す私を、許しておくれ」
しばらく茫然と師の弟を見つめた志之助は、こくっと一つ頷いて、片手で自分の涙を拭う。それでもおさまらなくて、台玄にもう一度拭いてもらって。台玄は安らかな笑みを浮かべた。
「一足先に、行っております。兄上……」
そっと目を閉じた台玄の顔は、苦しみなど微塵も感じさせない優しい仏の笑みを浮かべていた。いつ息をしなくなったのかもわからないほど、安らかだった。呼吸を感じなくなって、志之助は彼を抱き締める。したたった赤い血が、玉砂利の上に赤い水溜まりを作っていた。
「しのさん……」
肩を抱き寄せて、征士郎は志之助を背中から守るように抱き締めた。声も出さずに、志之助は大きな涙の粒を流して泣いていた。
その姿が故人を本当に尊敬していたのだと思わせて、征士郎は志之助を力一杯抱き締めた。そうしていないと、どこかへ消えてしまいそうだった。いつのまにか沈んでいた日の影に吸い込まれて。
報せを受けた寛永寺住職は、仏となった台玄に黙祷を捧げ、志之助からその亡骸を引き取った。志之助も、ようやく涙が出なくなって、征士郎に助けられながら立ち上がる。
「和尚様。台玄さまの葬儀、よろしくお願いします」
彼は頷くと、一緒にきた他の僧に亡骸と共に、この場所を離れていく。
黒衣の一団を黙祷を捧げて見送って、志之助は征士郎を振り返った。
「行こう」
「どこへ?」
「長州藩上屋敷」
あっさりと答えて、志之助は寺を出るため坂を下り始めた。
なるほど、と頷いた征士郎は、志之助が怒りのあまり暴走しないように慌てて後を追い掛けていった。おそらく、暴走しても止められはしないのだろうが。
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