弐の1




 明神下から上野まで、そう長い距離ではない。

 なるべく人通りの多い道を選び、二人は並んで歩いた。といっても、二人並ぶと目立つことこの上ない。片方は腰に長いものを差している、誰がどう見ても人の二、三人は殺していそうな浪人者。もう片方は法衣に身を固めて錫杖をつく、見事なまでに見事な僧侶である。ここまで立派に着こなされると、たとえその髪が長くても、その立場を疑うものなどいなかった。

 左の手で錫杖をつきつつ歩く志之助のすぐ右隣に征士郎は付き添っていた。前に足を踏み出すたびに、シャランシャリンと音がする。

「なあ。髪をのばしている理由を、教えてはくれないのか?しのさん」

「ないよ」

「……何?」

 あっさり答えられて、征士郎は思わず聞き返した。志之助はまた、ないよ、と繰り返す。

「……お菊には理由があると言っていなかったか?」

「あるにはあるけどね。山への反抗心っていう立派な理由。でも、それ以外にはない。それに、うちの師匠がこの髪に何も文句を言わなかったんだから、かまわないさ」

 何しろ志之助の師匠は比叡山の最高実力者、天台座主にまでなった人だ。その人が見て見ぬふりをしているということは、認められているも同じだということなのである。

 その程度の理由ならば、征士郎もかなり昔から知っていたことだ。まだ修業僧だと名乗れた頃からの仲である。その髪の所以は、征士郎とて聞かなかったわけではない。

 本当に?ともう一度聞かれて、志之助は軽く笑ってみせた。

「本当だよ。他にはなにもない。あとあるとしたら、呪を使うときに使うくらいだけど、別に必要だというわけでもないからね」

「呪? 何の呪術を使うと、自分の髪が必要になるのだ?」

「分身の術。っていうか、操り人形? 身代わりにするのにね、その憑代に使うことはある。撫で形を使うより楽だからね」

「撫で形というと、あれだな? 人間の形に切り取った紙に、身代わりにする人間が自分の念をこめる……」

 以前、征士郎も使ったことがあった。おつねにとり憑いた悪霊を取り去るときに、店番を代わりにやる人物、寺子屋に代わりにいく人物が必要で、身代わりを作ってしまったのである。志之助の作る繰り人形は、そのくらい高度な技も平気でやってのけるわけだ。

 今回それを使わなかったのは、志之助にとっても正体の見えない敵に対するのに、繰り人形に法力を取られている場合ではないからだった。

「強いて言えば、髪の毛というものは、爪と同じで日々生えてくるものなんだけど、生えるだけであとは切られるしかないものでもあるんだ。つまり、生えたときにすでに死んだものなんだよ。負のもの、ってこと。負のものには負のものが寄っていくものでね。坊主ってやつは基本的に自分の信仰を追いかけて人々を救うのが仕事なんであって、霊を浄化してやったりするのも生きている者のためっていうのは知ってるでしょ。だから、負のものが寄ってこないように、髪も爪も短く切ってしまうのさ。俺はちょっと違って、迷っている霊を助けてやりたいっていうのがあったから、逆に寄って来やすい状況を作ってやらないといけないわけだよ」

「……随分深刻な理由ではないか。強いて言うと、どころではない」

 何故そのような大事なことを今まで言ってくれなかったのだ、と征士郎が怒る。志之助は困ったように肩をすくめた。

「だって、だから、俺が髪をのばしてたのは、山に対する反抗心からなんだもん。負のもの云々とかいうのは、取って付けた言い訳。これで比叡山でも高野山でも渡ってきたの。それだけの話だよ」

「そうやって反抗してでも山に残ったのは、やはり荼吉尼天に対抗するためなのか?」

 そういうことになるね、と志之助は頷く。それが、納得するに足る理由だったらしい。引き下がるように征士郎も黙り込んだ。

 志之助と出会って、自分なりに納得するということを覚えた征士郎である。それまでは、他人のくれる正解にだけ満足していたが、志之助に考える癖をつけさせられて、今では自分で考えて納得しないと満足できなくなっている。基礎知識も志之助に詰め込まれたおかげで常人よりは豊富にある。考えるのには困らないわけだ。

 征士郎が口にした『荼吉尼天』という言葉。これがなければ志之助のこんな無茶苦茶な能力もありえなかっただろう。志之助の人生を決定づけたものの名である。

 荼吉尼天。大日如来が大黒天に姿を変え、夜叉神であった荼吉尼を降伏したことから、その後大日如来の眷属となった女神である。狐を眷族とすることから、日本ではお稲荷様と混同されている。

 このちょっと恐い女神様に目を付けられたのが、志之助だった。自分でも力を持て余すほどの巫体質であった志之助は、子供の頃からこの荼吉尼を自分の知らないうちに降ろしてしばしば身体を乗っ取られていた。それに恐怖を覚えた志之助が、知らないうちに自分が自分の身体から追い出されないようにと、比叡山に身を置きながら、高野山に出入りし、陰陽術を会得し、古武術も自分のものとしたのである。

 もちろんそれだけの資質があり、霊力も並はずれていて、だからこそ巫体質などという面倒な体質でもあったのだが、おかげで法力は比叡山で一、二を争い、その能力は節操がないわけなのだった。ちなみに、霊力とは人間が誰しも持っている魂の力、法力とはそれを法術として使うことのできる特別な力である。

 今ではその荼吉尼天も、古九尾狐の子である志之助を、同じ狐として守っていてくれていたのだとわかっているから、頼れる守護神である。

 九尾狐とは、家一族の守狐神。もう両親のどちらも覚えていない志之助だが、二年前のある事件がきっかけで父親の正体は判明したので、母が古九尾狐であったことは間違いない。古九尾狐は九尾狐の中でもさらに貴重な強い狐神である。志之助は、自覚がないとはいえ、その古九尾狐の末裔なのだ。

 だからといって、志之助が人間ではないのかというと、それはありえなかった。何しろ、狐に化けられるわけではないのだ。つまり、人間だということである。

 志之助が狐の子なら、征士郎も人魚の子で、他人のことを言えた義理ではない。征士郎の母は川崎近海の海底に住む人魚で、陸に上がっていたちょうどその時に中村家の父と知り合い、恋に落ち、人間の子を産み落としたのである。母を守っていた隣のおばさんから聞いた話だ。

 このおばさんも、いや、その村の人がすべて、人魚であったらしい。知らなかったのは、征士郎ただ一人。とはいえ、征士郎には海中で息をする術がなく、海底の母の生れ故郷には行けないので、二世とは言ってもたかが知れているわけだ。

 純粋に人間ではない者同士気が合う、というわけでもないのだろうが、二人が出会ったときには、本人たちでさえそんなことはちっとも知らなかったわけで、やはり出会いというのは不思議なものであるらしい。

 しばらく二人は、黙々と歩いていた。足を前に進めるたびに、やはりシャランシャリンと音がする。

 前方に森が見えてきた頃、征士郎はほうと息を吐き出した。それも、かなり辛そうに。志之助はそんな征士郎を見やって首を傾げる。

「何?」

「……しのさんでなくて俺がこんなことで溜息をつくのもおかしな話だがな」

「気が重い?」

 え? びっくりして聞き返す。どうもこの志之助、相棒が考えていることをうまく言い当ててしまう人である。志之助は征士郎の反応から図星と判断し、くすっと笑う。

「俺を足止めするのは、かなり骨が折れるだろうね」

 そういうことで、大丈夫だと言いたいらしい。たしかに骨が折れそうだ。だいたい、寛永寺に志之助より強い僧侶がいないのは分かり切っているのだから、閉じこめておけるわけがない。それも、剣術では腕前に自信を持って太鼓判を押せる征士郎がそばについているのだ。捕まえるのも無理のはず。

「だが、居場所がばれてしまうではないか」

「それは、しかたがないよ。江戸に腰を据えると決めた時点で、わかっていたことだ。ここには寛永寺という比叡山出張所があるんだから」

 運命と思って諦めるしかない、と志之助らしからぬことを言う。もう逃げ回るのも嫌になったというのはわかるのだが、それにしても気の弱い台詞だ。それを不審に思った征士郎は志之助の顔を覗き込んだ。志之助に変わったところは見られないが。

「また旅に出るのか?」

「まさか。まだ江戸に居を構えて一月しか経ってないよ。せっかく長屋の人たちとも仲良くなったのに、逃げるなんて嫌だよ」

「ならば、どうするのだ。捕まるのを待つわけではないだろう?」

「徹底交戦あるのみ。大丈夫だよ。師匠も老い先短くなってるし、そう長いこと追われることはないから」

「そう願うよ」

 もう何も言うまい。徹底交戦をする覚悟がついているのなら、自分は志之助を守るだけだ。志之助とこれからの一生を歩いていきたいのなら、その覚悟をつけるべきであり、そう改めて確認させられたわけである。そして、そのことに対しては征士郎に不満などあろうはずがなかった。できることなら、もう静かに暮らしたいとは思っていたが。

「もし、寛永寺それ自体が企んだこととしたら、どうするのだ?」

「京都に行く。その時は、せいさんにも留守の番をしていてもらうことになるけど」

「一緒に行ってはいけないのか」

「俺自身を山から帰すので手いっぱいだろうね。比叡山でないかぎりは俺に勝てる僧侶なんてめったにいないけど、山に入ってしまうと、何しろ伝経大師様が相手になるからね。九百年以上前から比叡山を守っている守護結界の中では、俺の力も押さえられる。自分を結界の外まで導きだすのが精一杯だよ。ましてや、せいさんを人質に取られちゃったら、俺には何もできない」

 そんなにすごいところなのか、と征士郎は改めて舌を巻いた。いつも志之助の力を見ている征士郎である。その志之助がここまで言うのだ。よっぽどのことである。

「一部の奴らの企みであってほしいな」

「本当に、そう願うよ」

 よほど比叡山には行きたくないらしい。志之助がしみじみと答えるので、征士郎は思わず神に祈ってしまっていた。仏ではなく、日本古来の八百万の神に。





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