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荼吉尼天から身体の主導権を取り戻した志之助は、その場に木切れで簡単に陣を描き、簡単に呪法を施して、江戸の守護結界の性質をがらりと変えてしまった。
志之助としては当然のことだが、形式などあったものではない。出来ていればいい、というのが志之助の持論らしいが、行動原理もそこに置かれているようである。
普通の僧侶がこれを行なえば、かなり面倒なことになるはずだった。何しろ日本という国を守る大がかりな結界である。この結界を張ったという天海和尚も、相当苦労しているだろう。
それを、性質を変えるだけにしても、一日もかけずに行なってしまえるのだから、志之助の力というのは恐ろしい。それを平然と見ていられる征士郎もある意味恐ろしいかもしれない。
術を施してしまうと、志之助はしかし、一仕事終えた割にはすっきりしない表情で、上野の方角に視線を向けた。
仕事は終わったものと思っていた征士郎が、怪訝な表情を見せて、志之助に問いかける。
「しのさん? どうした?」
「何で将門公が今の時期に暴れだしたのかと思ってたんだけど……」
「……例の、陰謀か」
「上野寛永寺。そこに、首謀者がいる」
一緒に行くか、と問いかけてくる志之助に、征士郎も表情を改めさせられて、深く頷いた。今更手を引くことなど考えもつかない。付き合うなら、とことん最後まで付き合うつもりだ。
「しかし、まさか、敵は身内か」
「だから、俺の足止めにかかったんだよ。俺の力をよく知ってる、つまり、それなりに向こうも実力者だということ。でも……」
「何だ? 何か気にかかるのか?」
「嫌な予感がするんだ。もしかしたら……」
その予測を、志之助は口にすることもためらっている。今までの志之助の超常現象に対する予測や判断は、征士郎の知る限り、百発百中だ。その彼が辛そうに言葉を濁すのならば、志之助にとって嬉しくない事態が待ち受けているということに他ならず。
「何があろうと、俺はそばにいる。それだけは、信じろ」
「……ありがとう、せいさん。頼りにしてる」
信用に足る相棒に励まされて、志之助は少し嬉しそうに口元を緩めた。
志之助が呪詛返しのついでに付けた印は、征士郎にもわかるようなはっきりとしたものだという。それでいて、本人にはわからない印。つまり、本人の死角に付けられていた。
ここ寛永寺の僧侶は、当然だが剃髪している。していない志之助の方が特別だった。したがって、頭に印を付けられれば、かなりはっきりとわかるのだ。本人には確認のしようもない。見た目にはあざのように見えるものだった。
目的の人物を見付けたら心で強く呼ぶようにといわれて、征士郎はしかし問い返したりはしなかった。つまり、心で強く呼ぶことで念が発生し、それを志之助の精神感応で捕まえようというのだ。
志之助からは式神を寄越してくれるということだった。今まで一度も式神を使っているところを見たことがなかったが、使わなかっただけで使えないわけではなかったらしい。
何度も偶然顔をあわせながら、二人は山中を駆け回った。二人とも、寛永寺山内の作りはよく知らない。おかげで、道に迷いながら、たまに同じ場所に行ったりして、人を探していた。探していることを知られて逃げられても困るため、人に聞くことも出来ない。
日も暮れかけた頃、ようやく見つけたのは志之助の方だった。
みみずののたくったような文字が書かれた短冊を懐から取り出し、そっと呪文を唱える。短冊は小鳥に変わり、パタパタと小さな羽根の音をさせながら飛んでいった。後は、征士郎が来るまで見張っていればいい。
いったいどれだけ遠くにいるのか、征士郎はなかなか来なかった。その間に、目的の僧侶もあちこちと忙しなく動き回っている。その動き回り方が、何か目的があっての動き方ではなく、ただ落ち着きがないだけと悟って、志之助は眉をひそめた。
そう強い僧侶ではないようだ。法力が強い僧は総じて、頭の働きも常人以上にはあるものである。そうでなければ呪術も使えない。
だが、この僧を見るかぎり、そんなに強い法力を使ったとは思えなかった。結界を壊そうなんて恐れ多い、そういう僧侶だった。
穏身の術を使って自分の姿を他人に認識されないようにした志之助は、どこかへ歩いていくその僧を追いかけた。
後ろをつけていく志之助にはまったく気づかず、その僧はずんずんと山を登り、寛永寺本堂へ入っていった。きょろきょろとまわりを見回して、入り口の扉を閉める。
志之助はその扉の前に座り込むと、中の音に神経を集中した。
中では先程の僧よりもずっと年を取った男性の声が聞こえてきていた。三人以上はいるらしい。
その中の一人の声に、志之助は聞き覚えがあった。寛永寺の僧侶とはほとんど馴染みがないが、一部比叡山から来ている者もいて、その数人だけは志之助にもわかるのだ。その数人のうちの一人らしい。
誰だ?と首を傾げた志之助の目に、征士郎が息を切らして駆け寄ってくるのが見えた。
し、と口元に指を当て、征士郎の手を取る。こうすることによって、志之助の聞いている音が征士郎にも聞こえるはずだった。
反対に、征士郎は志之助の能力増幅器のような役割もしていて、志之助にも先ほど以上に向こうの音が聞こえるようになっている。
役目は終えたとばかりに式神が消えた直後、志之助は聞いてしまった人の名前に驚いて顔をあげた。志之助の顔を見て征士郎も不思議そうな顔になる。
志之助の口が、嘘でしょ、と形作った。
「どうした?」
ささやいてきた征士郎に、志之助は泣きたそうな表情で縋りついた。
「知っている奴なのか?」
「僧正様の弟君。台玄律師……」
信じられないと言わんばかりに志之助の目は大きく開かれたままだ。
兄である天台座主の使いとして、志之助が出発する一年前に山を出た人だった。志之助を可愛がってくれた人の一人でもある。
そんな偉い人が何故?と征士郎は首を傾げた。志之助も首を傾げている。
金のため、とは考えにくかった。何より、彼が金に執着するとはどうしても思えなかったのだ。
志之助と比べるのは間違っているかもしれないが、志之助よりも何倍も信心深く、何倍も真面目な人なのだ。金や名声のために動くとは、とても考えられない。
しかし、だとすればいったい何故なのか、想像がつかない。
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