第七幕 江戸終着編 1




 比叡山を発って、ほぼ一年。ようやく志之助は目的の地へ辿り着いた。

 江戸のはずれ、上野寛永寺。広大な敷地を持ち、数多くの堂塔を有するそこは、徳川将軍も何人か眠っているという、由緒正しい天台宗の寺院である。

 そして、江戸幕府守護結界の最重要拠点でもあった。おそらく、この寺が壊滅させられたとき、江戸幕府は滅亡する。天災だろうが人災だろうが、それは間違いない事実だ。

 一種異様な雰囲気を持つその前に立って、志之助は軽く溜息をつく。

 今まで何やかやと理由をつけては到着を遅らせてきたのは、ひとえに辿り着きたくなかったからだった。

 歓迎されるなどとは思っていない。遣わされた理由が理由だ。仏寺とはいえ、所詮そこに住まうのは人の子。将軍直々の呼び出しを受けた修行僧など、格好の嫉妬の餌食だ。

 辿り着いたことそのものだけでも頭の痛い話だが、他にも志之助は問題を三つ抱えている。一つは、相棒中村征士郎との関係のこと。一つは結局正体が掴めないまま江戸に辿り着いてしまった何らかの陰謀。もう一つは、神田明神のことだ。

 志之助にとって、征士郎はもはや欠くことのできない大切な相棒だ。

 法力の補佐になるということだけではない。巫としての力を惜しみなく発揮するには、精神的にも霊力的にも肉体的にも、全てにおいて支えになってくれる征士郎の存在が、志之助にとって必要不可欠となりつつあるのだ。

 川崎で弘法大師を降ろすと決断できたのは、征士郎がそこにいてくれたからだ。ただ単に弘法大師の話の聞き手が必要なだけだったわけではない。征士郎だからこそ、必要だったのである。

 志之助は、師匠である僧正を除くと、人の前で霊を降ろしてみせたのは征士郎が初めてだった。それだけ信用して、頼りにしていたということだ。

 それに、これまでの旅路を邪魔してきた数々の呪詛。すべての呪詛が、江戸に帰っていったことを鑑みれば、ここで何かが起こるであろうことは覚悟しなければならないだろう。

 しかも、上野山に足を踏み入れた瞬間に、それがこの場所を基点としていたことを、肌に実感した。呪詛返しをした際に、目印となるものを付与して返した。その目印が、この山に存在している。内部の人間の仕業だということだ。

 何にせよ、今は神田明神をなんとかしなくてはならない。

 弘法大師がそう言ったから、という理由は、もはや志之助の意識の範疇になかった。志之助本人が、なんとかしなければならないものである、と肌で感じてしまっているのである。

「すみません。こちらの和尚様にお会いしたいのですが、どちらにおられますでしょうか?」

 ちょうど側にいた墨染めの着物を着て箒を持った僧侶に、志之助は声をかける。和尚に何の用かと首を傾げた彼は、しかしとても親切に教えてくれた。礼を言って、志之助は言われたとおりに歩きだす。

 途中何人かに尋ねながら辿り着いたのは、寛永寺本堂だった。そこで、目的の人物は瞑想に入っていた。そばには誰もいない。中に入り戸を閉めた志之助は、迷いもなく近づいていくと、本尊に手を合わせて隣に座った。

「そなた、どちらからまいられた?」

「延暦寺よりまいりました、志之助と申します。たいへんお待たせをいたしました」

 座禅を組み、志之助はそっと目を閉じる。和尚は反対に目を開けて志之助を見やった。

「一年もの間、何をしておられた? 早ければ二十日程でつくはずの道程であろう」

「来たくなかったものですから」

 正直に答えてしまうのが、たぶんお偉方に煙たがられる原因だろう。高野山に出入りしているということを抜きにして考えた場合、未だ修業僧の身であるのはそのせいである。法力だけ見れば、比叡山で一、二を争う腕前なのだ。

「何故遣わされたか、わかっておろうな?」

「はい。ですが、お断りに伺いました」

 本来であれば、要求の大本である将軍本人に断りを入れるのが筋だろう。だが、志之助はそこまでするつもりは毛頭ない。

 それに、その問答の前にすべきことがある。

「いずれにしても、私にはまだやり残したことがあります。ついては、東叡山の力をお借りしたいのですが、ご助力いただけますか?」

「何をしろと?」

「人をお貸しいただきたい。神田の将門公を解き放ちます。ゆえに、周囲に害の及ばぬよう、結界を張っていただきたいのです。力のあるものを五、六名お貸し願えませんか」

 将門公を? 何を言い出すのかわからずに、和尚は志之助を見つめる。志之助の目が真剣なことに、どうやら気づいていないらしい。

「自殺でもするつもりか? かの霊を解き放ち、無事で済むはずがない。それなりの理由がなければ、手は貸せぬ」

「江戸の守護結界を守るためでもですか? 天台の僧として、江戸結界を弘法大師様に守護されていて恥ずかしくないのですか」

 和尚のセリフに、この寺の者は誰一人この異常事態に気づいていないことを知って、志之助は思わず嫌味を言ってしまう。

 江戸に入ってすぐに、志之助にもわかったというのに。今でも南西の方角から威圧的な空気が感じられるというのに。

 関東でこれほどの気を発することのできる霊といったら将門以外にはないのだ。そのくらい、素人の征士郎だってわかっていた。それがなぜ、本職であるこの寺の人間はわからないのか、不思議になってしまうほどである。

 役に立つ人など期待できないと、志之助は心の中で諦めた。結界を張る人員だけ確保すれば、それで十分と考えるしかなさそうである。

「無駄に言い争いをしている暇はありません。無礼は承知しています。ですが、時間がないのです。この山から、法力だけを鑑みて上から五、六人、お貸しいただけませんか」

「たかが一修業僧に手を貸すものがいると思うか? 自惚れもたいがいにいたせ。自らの地位を改めて確認してみるがよい。この山の者は大半がそなたより地位も名誉も実力も備えておる。われらが危機を感じておらんというのに、そなた一人警告を発したとて誰が信じるのだ」

「信じてもらわなくちゃ困るんです。俺は巫です。あなたたちよりも感覚も法力もすぐれている。その俺が、手を貸してくれと頼んでいるのに……。いいです。わかりました。一人でやってみます。瞑想中お邪魔しました」

 そろそろ征士郎との約束の時間だ。こんなところで言い争いをしている暇はない。

 志之助に降りたことで、川崎、成田、高尾の三大師がその霊力を弱めてしまった。つまり、急がないと将門公が暴れだしかねないということだ。時間などない。

 そもそも、江戸の平和は、志之助には興味のない話である。結界が壊れようと、志之助の知ったことではない。

 だが、征士郎の家族が巻き添えになることは志之助には許せないのだ。家族のいない志之助だからこそ、家族が残っている身内の人には、その家族を大切にしてほしいと思う。それが、この場合、征士郎の兄夫婦なのだ。

 すっと立ち上がった志之助を見上げ、和尚が呼び止めるでもなく言う。

「そなた、自らの指名をまことに断るつもりか。上様は、比叡の中でももっとも法力の強い修業僧を、とそなたをご指名になった。名誉なことだと思わぬか」

「あなたが勝手に思ってるだけですよ。辞退します。適当なことを言って言い包めるのはお得意でしょ? 自分の一番弟子でも送り込んだらいかがです?」

 ぷい、と踵を返して、志之助は堂の外へ出ていった。

 志之助の憎まれ口を本気と取らなかったのか、和尚はそのまま瞑想に入ってしまった。さすが東叡山の最高権力者、肝だけは座っているらしい。





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