第六幕 川崎大師編 1
中村征士郎は川崎の宿に程近い漁村の生まれである。
生まれも育ちも川崎で、母に先立たれて父の元に引き取られるまではこのあたりを庭として走り回っていた。したがって、神奈川から六郷の渡しにいたるまでの一帯について、征士郎の知らないことなど数えるほどしかない。
数えるほど、の中の一つに川崎大師の存在があった。子供心に、恐れ多くて遊び場にできなかったのだろう。征士郎は川崎大師の門の前で立ち止まり、ふうむと唸って不精髭を撫ぜた。
征士郎の隣に立って、志之助は腰を叩いている。鎌倉でしばらく療養したものの、何か嫌な予感に急き立てられるように、また旅に出てきたせいだろう。かなり辛そうである。
二人揃って、川崎大師にはさしたる用事もない。それでは何故ここにいるかと問えば、ただ単に通り道であっただけである。
二人は、征士郎の生まれた村まで母の墓参りに向かう途中だった。ついでだからお参りしていこう、と寄ったのである。
「入らないのかい、しのさん」
「せいさんこそ。こんなところで立ち止まって、どうしたの?」
先に行けとばかりにそう言う志之助に、征士郎は首を傾げる。
確かにこのあたりは征士郎の出身地だ。だが、寺社が相手となれば先に立つべきは志之助である。何といっても、志之助は修業僧なのだ。遠慮などしている場合ではない。
「何か感じるのか?」
「そう。何か、ね」
「具体的でないな。どうした?」
「だって、あまりに神聖すぎて、俺には入っていけないよ。ここ、昔からこうだった?」
邪魔そうに二人を避けて、参拝者が門をくぐっていく。征士郎はしばらく黙って志之助の隣に突っ立っていたが、やがて一歩後ろに退いた。
「どうも恐れ多くてな。昔から、足を踏み入れたことがない。神聖すぎるというなら、まさにその通りだな」
「避けていこうか。墓参りにいかなければいけないだろう? こんなところで止まっている暇はない」
「ああ、そうだな」
二人は門の前で方向転換をすると、参道の飴屋や達磨屋を避けて脇道へ入っていった。
しばらく突っ立っていた二人を不思議そうに見ていたそばの飴屋の女将が、立ち去っていく彼らを代金を受け取りながら見送って、首を傾げた。
集団墓地の一角にある小さな墓に花を供えて、二人は手を合わせていた。やがて、立ち上がった征士郎がまだ拝んでいる志之助を見下ろす。
「なあ。俺はともかく、僧侶のお前さんがどうして大師様に入らなかったんだ?」
「せいさん、入れた?」
手を合わせたまま、志之助はそう聞き返す。いいや、と征士郎は首を振った。
目に見えて何かがあるわけではもちろんない。恐れるような特別なものもない。感覚的に何か感じたとしても、征士郎はそんなものは気にしないほうである。
だが、何故か川崎大師にだけは入ることがはばかられるのだ。
志之助は、顔を挙げて征士郎を見上げて、困ったように笑ってみせた。
「わからないんだよ、俺にもね。ただ、何となく、恐かったかな」
「珍しいな、しのさんが何となく、なんて」
桶から杓子を取り上げて、墓石に水をやる。石は水を吸って黒く色を変えた。
志之助がようやく、溜息をついて立ち上がる。
「他の人は平気なんだろうか」
ん?と征士郎は桶から水を掬いながら問い返した。征士郎より少し背の低い志之助は、上目遣いに征士郎を見上げ、肩をすくめる。
「他のお参りの人たちは、何の戸惑いもなく入っていったでしょう? 何も感じなかったのかな?」
「そういや、おかしいな。俺も感じたというのに、他の者たちは平気な顔をしていた」
征士郎が志之助を見下ろし、志之助は征士郎を見上げる。
桶を持ち上げて、征士郎は志之助の肩を叩いた。
「行こう、しのさん。何かがある」
「うん」
振り返った二人組の背を、風がやさしく叩いていった。
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