壱の10
お菊はさすがに人に見られるとまずい人間なので、二階で蝋燭の絵付けや売り物の小分けなどをすることになり、加助は店番にのみ集中してもらうこととなった。
店番には不審人物からお菊を守る役目もある。通りや裏口などに気をつけていてもらわなければならないのだ。一人で品物の準備やら店番やらをこなしてさらに用心棒までできてしまう志之助と違い、加助にそこまで要求するのは酷というものである。
もしも加助の手が回らない状況で家の中にお菊を狙う人物が入ってきたときには、屋根裏を通ってお隣にいき、おつねかおはるの家を頼るようにとお菊には言いつけてあった。
おつねには髪結いの仕事があるから夕刻までは家に誰もいないので、それまではおはるにかくまってもらおうというわけだ。
「加助さん。あらかじめ言っておきますけど、うちには何も盗るものはありませんからね」
「いやですよ、志之助様。もうすっかりスリからは足を洗いました。三十両盗めば死罪ですからね。中村様にお世話になっておきながら、そんな危ない橋は渡りません」
信用してください、と加助は苦笑して言った。信用したい志之助と征士郎は、顔を見合わせて軽く首を傾げ、それから笑いあった。
「ええと。お菊ちゃん。何度も言うようだけど、何か大事な用がないかぎりは下に下りてこないこと。守れるね?」
「はい」
きっちり頷いて、お菊はまた、深々と頭を下げた。昨日の夜から何度目だろう。さっきもあんなに言って聞かせたのに、まだ申し訳なさそうに頭を下げるお菊である。もういいからと志之助は言うのだが、そういうわけにもいかないらしい。
「さて、しのさん。まずはどうするね」
「寛永寺の和尚に会う」
「……いきなりか?」
「寺ぐるみか、一部僧たちの企みか、はっきりさせないとね。借りてきてもらえた?」
ああ、と少々納得がいかない様子ながら差し出したのは、どうやら着物らしい。黒い着物と白い着物。そうそうと思い出して加助が差し出したのは、僧侶が持つ、錫杖と呼ばれる杖である。寺の地蔵像がたまに持っている、先端に輪がぶらさがっていて、地につくとシャランシャリンと音がなる杖。長旅の途中で手に入れた志之助が、邪魔になるからと中村家に預けていたものだった。ということは、借りてきた着物もおそらく僧侶の着る法衣だろう。
「髪。いいんですか?」
「髪をのばすのも、わけがあるのさ」
「なに? わけなんぞあったのか? 今の今まで知らなかったぞ」
驚いた征士郎にくすくすと笑ってみせて、志之助は着替えに二階へあがっていった。まだ相棒の自分に隠し事をしていたのを知って、憮然とした表情になる征士郎である。
志之助が二階にあがったのとほぼ同時に、裏口を叩く音がした。加助が相手を確かめると、女の声で返事が返ってくる。名乗りでおつねとわかった。
「おはようございます。あら、加助さん。お久しぶりです〜」
「ああ、おつねさん。おはよう。朝の忙しい時間に、手数をかける」
「いいえ、大したお構いもできませんで。悪いわねえ、お菊ちゃん。一緒にいてあげられるといいんだけど、あたしも最近仕事が軌道に乗ってきたところで、休むわけにもいかなくてねえ。おはるさんには引き受けてもらえたから、何かあったらお行きなさいね」
「ありがとうございます」
また深く頭を下げる。およしよ、とおつねも手を振るが、やっぱり申し訳ないという気持ちはなくならないらしい。なくならなくてもいいから、思うだけにしておいてほしいものなのだが、そうもいかないのだろう。奉公先にきちんと躾けられた結果でもある。
シャラン、と上から音がして、皆が一斉に顔をあげる。二階から志之助が下りてくるところだった。白の着物に黒い薄手の長羽織を前をきっちり合わせて着れば、それで立派に法衣になる。ほう、とおつねがうっとりした溜息をついた。こんな格好をすると、僧侶にあるまじき長髪なのに、立派に僧侶に見えるのである。まるで後光を放っているように神聖な雰囲気すら漂わせている。
「ああ、おつねさん。おはようございます」
「……おはようございます。すごいわねえ、志之助さん。見事に着こなしちゃってるわ」
「いやあ。この手の着物は誰でも似合うようにできてますから」
長髪に似合うようにはできていないと思う、というのがお菊の声にできなかった突っ込みだ。さすがに征士郎は見たことがあるらしく、さてと、と声をかけて立ち上がった。
「じゃあ、加助さん。よろしくお願いします」
「へえ。おまかせください」
「お菊ちゃんも」
「頑張ってください。大旦那さまを、よろしくお願いします」
そう言ってまたまた頭を下げたお菊に見送られて、二人は店を出ていった。
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