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「ただの旅の僧侶と剣客、か」

 すでにぼろぼろになっている袴の裾を持ち上げて、潮が少し引いてきてとりあえず渡れるそこを征士郎は歩いていた。膝の上まで裾をまくった志之助が先を歩いていく。二人とも片手に草履をもっていた。足はまだ水に浸かってしまっている。

「何? 順番逆がよかった?」

「いや、そんなことはどうでも良い。ただ、口に出すと妙な取り合せだと思ってな」

「これ以上ない無敵な取り合せだと思うけどね」

 そう言って、志之助は江ノ島を見上げた。空を黒い雲が物凄い速さで走り抜けていく。海の上で稲妻が横に走ったのが見えた。

「江ノ島に弁天様がいるのは、知ってた?」

「いや。だが、どこにだっているものだろう、七福神は。江ノ島にいるのが弁天だろうが福禄寿だろうが、まったく気にならん」

「福禄寿と並んじゃったか。大黒様とか恵比寿様とか出てこないあたり、人気のあまりないのが好きみたいだね」

「好き嫌いの問題ではなかろうが、まあ、ありきたりなものを例に出してもつまらんからな」

 で、それがどうした、と征士郎は志之助の背中を見つめた。志之助は先程からずっと江ノ島を見上げている。

 いや、江ノ島の上空、というのが正しいだろう。はっきりと、何もない空間を見ている。雲でもなければ、森でもない。

 その視線に気づいたらしい。征士郎は志之助の肩に手を乗せた。駿府で征士郎を守ったのと同じ原理だ。そうして志之助の身体に触れることで、志之助の力を借り、霊的な五感が増す。

「見える?」

「ああ。何なんだ、あれは」

「村の人が言うところの弁天様、だよ」

「蛇、だろう?」

 不可思議な存在を見せられて、志之助の肩に乗せた手に、思わず力が入る。志之助に痛そうに身体を揺すられて、慌てて手を離した。征士郎の視界から、見えていた蛇も消える。

 そう、そこには蛇が見えていたのだ。江ノ島の上空に浮かぶ、巨大な白蛇だった。白蛇は守り神だという話もなくはないが、それが弁天だといわれると、にわかに信じられるものではない。

 反対に志之助に抱きつかれて、征士郎は北の空を振り返った。気がついた?と志之助もそちらを見やる。

「どうやって恩を売ろうというのだ?」

「まあ、見てなって」

 振り返った征士郎は視線を釘づけにさせられたまま、志之助に声をかけた。

 そこにいたのは、どう見ても仁王にしか見えない、武神の姿をした恐ろしい形相の鬼だった。それが、北の空を江ノ島に向かって走ってくるのである。雲に乗っているように見えた。この嵐はこの仁王が呼んだものだったのだろうか。

 江ノ島の上空にいる蛇が威嚇の声を上げた。いや、声ではない。喉を鳴らしているのだ。

 志之助が同じ呪文を唱えたところをついぞ見たことがないのだが、今回も今まで聞いたことのない不可思議な言葉を唱えたのを耳元で聞いた。おそらく、聞いたことがない言葉だろう。不可思議な言葉だけに自信はない。

「天狗たち。出ておいで」

 懐から短冊を一枚取り出す。それを言葉とともに無造作に放り投げた。

 火の気などあろうはずもない雨の海の上で、空気中にひらりと舞った短冊がひとりでに燃えだし、一瞬で燃え尽きてしまった。その炎から出てきたように見えたのは、箱根の山で暴れ回っていたあの烏天狗たちだった。

「お前たち。あの仁王様を気取ってる阿呆をひっ捕らえといで」

 すっと指差したそれは、やはり仁王に見えるそれだった。雲に乗った巨大な鬼神に天狗たちは果敢に向かっていく。果敢に、というよりも、仁王よりも志之助の方が恐い風に見えたのは、征士郎の目の錯覚だろうか。

 征士郎はというと、その一部始終をぼんやりと眺めていた。

 もちろん、驚く、などという面倒臭い行為は抜きである。志之助が見てろというのだから、何もしないで見ていて良い状況なのであって、そうなると征士郎に口を出す余地などない。そういう場合、とてつもないことが起こるのは当然なのであって、驚くだけ馬鹿馬鹿しい。

 天狗に囲まれて、仁王もどきは困惑の表情でその集団を追い払おうと躍起になった。志之助が『気取っている』というのだから、それは仁王ではないのだろう、と征士郎は推測していた。この世の常識とはかけ離れた事態で志之助が断言したとき、それは九割以上の確率で事実なのである。

 この時も、それは頷けた。というのも、天狗たちを追い払おうと暴れていた仁王は、いつのまにか山のような天狗の集団に囲まれて、身動きが取れなくなってしまったのだった。

 突如あらわれた烏天狗の集団に、弁天、もとい白蛇は驚いたようで、目をまるめてそれを見ていた。

 古代日本語らしい真言とはまた違ったおかしな言葉を早口に呟いた志之助は、使役する烏天狗たちに連れてこられた大きな大きな仁王もどきの足を見上げると、そこに手をかざした。

「爆っ」

 言葉にしたがって、仁王もどきの姿はばらばらに散らされ、跡形も残らなかった。

 征士郎の出番は、最近ではめずらしく皆無で、何か物足りないものを感じながら江ノ島の上空に目を遣った。そして、そこで表情を固まらせた。

 今まで白蛇がとぐろを巻いていたそこには、たぐいまれなる容姿を持つ美女がたたずんでいた。空に浮いて、それは普通の人間の大きさだった。これが、本物の弁天様、らしかった。





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