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小さな川をいくつか越えると、江ノ島の鬱蒼とした森が目の前に立ちはだかった。
いつのまにか日は暮れ、江ノ島行きの舟はこの波で引き上げられている。引き潮になれば歩いて渡れるらしいが、あいにくと今は潮も満ちている。
征士郎と志之助は、顔を見合わせて肩をすくめ、近くの村へと足を向けた。
漁村、といって間違いはないはずである。舟がいくつか海岸にあげられていた。波にさらわれないように、という用心のためらしい。
繕いかけの網が広げて放置してあり、飛ばされないように大きな石で押さえている。もしかしたら、別に飛ばされてもいいのかもしれない。そんな置き方だ。
そういう海岸の内陸部にあるいくつかの家に、明かりはついていなかった。何とも寂びれた村ではあるが、それでも住民がいないというわけでもないだろう。もう寝静まってしまっているのだろうか。
二人は、三軒目の家の玄関を叩いていた。前の二軒は二軒とも、まったく反応がなく、不安に感じはじめていた。もしかしたら、本当に誰もいない村なのか、と思わされるのである。
だが、それは杞憂に終わったらしい。三軒目の家から、一人の老婆が顔を出した。家の中には明かりがなく、しんと静まっている。
「どちら様ですかな?」
「夜分遅くすみません。旅をしている者なのですが、今夜一晩お宅の軒下をお借りできないかと思いましてうかがったのですが」
できるだけにこやかに、志之助はそう言った。こういった社交的な仕事は志之助に任せているらしく、しっかり姿勢を正して、志之助の後ろに征士郎は突っ立っている。
老婆は志之助と征士郎をじっくりと舐め回すように見て、やがて身体をずらし中を示した。
「何のおもてなしもできませんが、どうぞ中へお入りください」
途端に、家の奥から野太い男の声が聞こえてきた。
「おい、ばあさん。冗談じゃねえぞ。余所者を家に招き入れるなんて、何考えてんだよ。今日がどんな日だか、忘れたわけじゃあるめえ」
「これ、ひこっ! 何てこと言うんだい!」
老婆は大声をあげ返して、志之助と征士郎に中へ入るように促す。
覗いた家の中の囲炉裏のそばに、胡坐をかいたいかにも海の男らしい大男がいた。志之助が愛想良く頭を下げると、ぷいっと外方を向く。
「雑多煮しかお出しできませんが」
「あ、いえ。お気遣いなく。雨風がしのげればそれで」
ごめん、と頭を下げて、征士郎は腰の刀を抜くと、簀子に腰を下ろした。志之助も征士郎の隣に腰を下ろす。上にあがってくれというのを断ると、老婆が今日の夕飯であったらしいお碗と箸を持ってきてくれた。
「こちらはお二人で?」
「ええ。嫁をもらえといっているのですが、なかなか来手がなくて」
困ったものだ、という老婆の表情は、本気で息子を心配している母親の表情だった。なるほど、と頷いて征士郎は出してくれた雑多煮に口をつけた。
漁の片手間に栽培している畑の野菜で作ったのだという。魚は取ったその日に食べないと腐ってしまうので、こういう天気の悪いときのためにいろいろと作っているらしい。とはいえ、たいていは干物を食べるのだが。
魚から取った出汁に舌鼓を打って、志之助はそういえば、と息子の方を見やった。
「今日は、どんな日なんです?」
え?と老婆が聞き返す。息子の眉がぴくりとあがったのが見えた。
空気を故意に読まずに、征士郎は汁を飲み干して、美味かった、と言って椀を置いた。
「見なさりましたか? 江ノ島に雷が落ちましたでしょう」
言われて、二人の脳裏に音のしない雷が浮かんだ。それが気になってここまで来た二人である。先を促して慎重に頷いた。
「江ノ島にお住まいになる弁天様が目を覚まされることを告げる雷でしてね。外から悪霊が入ってくる時、江ノ島の弁天様が目を覚まされるというので、わたしたちはあの雷が落ちると戸を固く閉め、明かりを消してじっとことが過ぎるのを待つんです」
「それで、どなたも出てきてくださらなかったんですね」
なるほど、と征士郎は不精髭をざらりと撫でた。志之助はじっと江ノ島の方角を見つめている。
「せいさん。弁天様、見にいく?」
「好奇心旺盛なことだな。せっかく夜露を防げたというのに、わざわざ外に出て行くこともあるまいに」
「いやあ、弁天様に恩を売っておくのも悪くないかな、って」
「僧侶のくせに、何をぬかすか」
まったく、と溜息混じりに呟いて、征士郎は立ち上がった。刀を腰に差して、老婆に向かって頭を下げる。
「ご馳走様でした。礼をしに、また寄らせていただきます」
「いえ、それはかまいませんが。あなたがたは一体?」
ご馳走様でした、と手を合わせた志之助が立ち上がるのを待って、不思議そうな老婆に征士郎は全然似合わないにっこり顔を向けた。
「比叡山の修業僧と、その連れです」
「ただの旅の僧侶と剣客、ですよ」
軽く言いかえてやって、志之助は老婆とその息子に頭を下げた。
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