閑話休題 平塚河童編
ざんばら髪に不精髭のなぜか似合う男、中村征士郎は、連れを時折振り返っては心配そうに眉をひそめた。
つい先日自分が斬った背中の傷は竜神の奇跡が治してくれていたが、それでも流した血は元には戻るはずもなく、今だに貧血状態を引きずっている。その軽く青ざめた状態がまた、その長い髪と着流しと中性的な美貌に似合ってしまうから困りものだ。
「なあ、やっぱり少し療養してから出かけたらどうなんだい?」
「で、せいさんは先に行ってしまうんだろう? いやだよ、せっかく仲良くなれたのに」
「ならば待っていてやるぞ。先を急ぐ旅でもなし」
「俺は急いでるの」
「嘘をつけ。一ヵ月ものんびり道草くっていた奴が何をぬかす」
こんな会話がかれこれ四日間続いている。
これでもまだ、箱根を発った頃よりは良くなっているらしいが、途中毎日のようにあやかし事件に足を引っ張られ、体調が万全でないうちにこの長旅では、良くなる病も良くなるはずがない。
箱根を発って五日。
途中小田原で一泊、その後ずっと途中の寺に厄介になりつつ、鴨宮で一泊、国府津で一泊、二宮で一泊、平塚で一泊している。その道のりは、一日どころか、半日で通り抜けられる距離だ。
何故こんなにと思えるほど、あやかしたちは散々彼らの行く手を阻んできた。今までに日本全国旅している征士郎だが、これだけ足を引っ張られたことは一度もない。この旅は、異常だ。
ちなみに、現在、目の前に川がある。
川があるのは誰が見てもそうなのだが、問題はそこに渡し船が一つも出ていないことだった。
天下の東海道である。水かさも問題はないし、客もいないわけではない。こんな広い川で歩渡りなど、大井川くらいのもののはずだ。二人のまわりにも渡れないで困っている旅の者が大勢いた。だが、舟がない。
「いったいどうしたというのだ」
「さては、河童が出たかな?」
河童? 征士郎は聞き返し、それが納得できることであるかのように頷いた。驚きも恐がりも馬鹿にしもしない。どうやらこの二人にとってそれは自然なことのようでさえある。
「で、どうするのだ? 渡れなければどうにもならん」
「そうだね。なんとかしようか」
征士郎の言葉に頷いた志之助は、それからまわりを見回しだした。何かを探しているらしい。それを見守って、ふと征士郎は何かに気づいたらしく、はっと志之助を見つめる。
「しのさん。身体は?」
「もちろん良くない。でも、このくらいなら何とかなるよ。貧血くらいで音を上げてちゃあね」
「いや、音を上げていて欲しいんだが……」
ふと気を使うのを忘れてしまう、と困ったように呟いて、征士郎はポリポリと頭を掻いた。
「で、何を探しているのだ?」
「きゅうり」
なるほど、河童をおびき出す餌を探していたらしい。
それならば、と一つ頷くと、征士郎はその辺に座って休んでいるように志之助に言い付けて、来た道を引き返した。どこかできゅうりを栽培しているのを思い出したのだろう。
あまり征士郎が自信ありげなので、きゅうり探しは征士郎に任せて、志之助はそこにあった岩の上に座り込んだ。
四半刻ほど待っただろうか。
疲れがたまっていたせいでうとうとしかけた志之助の頭の上に、突然影が出来た。
顔をあげた志之助の目の前に、特大のきゅうりがぶらさがっている。きゅうりの向こうで、征士郎の顔が軽く息を切らして笑っていた。
「ついさっき見てきたところだと思ったのだが、結構遠くてな。時間がかかってしまった。大きくなりすぎて旨くないからと、この大きなきゅうりをもらってきたのだが、不味くても平気か?」
「大丈夫。誘い出すには十分だよ」
で、これをどうするんだ?と征士郎は志之助を見下ろす。立ち上がっては怒られてしまいそうで、志之助は困ったように肩をすくめた。
「釣り竿に結びつけて、川で河童釣りをすればいいのさ。釣れたらあとは俺がやるよ」
わかった、と頷いて、征士郎はまたそのきゅうりを持ったままどこかへ行ってしまう。今度はすぐに戻ってきた。釣り竿を近所の家から借りてきたらしい。何をするのかと、その家の人が子連れでやってくる。
「すぐに釣れると思うか?」
「河童が満腹していなかったらね」
ふむ、と頷いて、征士郎は岸に立って釣り糸を垂らす。先にはきゅうりが結び付けられている。子供たちが征士郎のまわりに集まった。
ほどなくして糸が引いた。何かかかったらしい。
征士郎についてきた子供たちが、わくわくと目を輝かせて見守っている。
竿を上げると、それは緑色の肌をした頭に皿を乗せている子供くらいの大きさの妖怪だった。わあっと声を上げて子供たちがあわててそこから逃げ出していく。何をしているのかと興味津々に注目していたそこらにいた大人たちの半数が腰を抜かした。俗にいう、河童だった。
もう不思議なことには慣れてしまったらしく、征士郎は平然と河童の首根っ子をつかんで志之助の方へ向けた。志之助はその征士郎の平気そうな仕草にくすくすと笑っている。
「さて、河童さん。渡し船を返してもらえるかな?」
「な、何のことだい?」
河童はどうやら白を切ることにしたらしい。ただ、自分を捕まえた大男は恐怖の対象であるらしく、征士郎を恐る恐るうかがった。それに対して、征士郎は無表情で見つめ返す。くすっと志之助が笑った。
「頭の皿を割られたくなかったら、返しなさい。そのお兄さん、皿どころか頭まで割っちゃうよ」
おいおい、と征士郎は思わず呟いたが、それが肯定に見えたか河童はブルッと震えて暴れだした。
「わかったよ。返すよ。だから離してくれよ」
返事を聞いて手を離そうとした征士郎に首を振った志之助は、きゅうりをぶら下げたままの釣り竿を手に取ると、糸を河童の首にかける。逃げられないと知った河童は、今度こそ観念してだらんと手を下ろした。
河童が引きずり上げた舟に乗って、二人は反対岸へ渡り、その先を歩いていた。
しばらくして、ふと征士郎は首を傾げる。
「そういやあ、船頭はどうしたんだ?」
「さあねえ。川に引きずり込まれて死んじゃったか、舟を河童に取られて逃げ出したか。なにしろ馬入川は近くに宿場のない川だからね。舟が戻っても、しばらくは船頭は戻ってはこないだろうさ」
ふうん、と答えて、征士郎は志之助の肩に手を置いた。身体を気遣ってくれているのがわかって、志之助はくすっと笑った。
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