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翌日。
結局日が傾きかけた頃起きだした征士郎と志之助は、風魔の長老のもとを訪ねていた。
旅館の裏に建つ貧相な古めかしい家がそこである。この場所で、風魔に関する全てのことが決められているのだという。
長老の元には、似たり寄ったりの年を取った男が三人ほど控えていた。この日はまだ、天狗の被害の報告は入っていないらしい。
征士郎と志之助が長老のいる部屋に顔を出したとき、そこにいた四人は難しい顔を突き合わせていた。日毎風魔に対する地元の人の反応は悪くなる一方で、どうしたものかと話し合っていたらしい。
二人に気づいて、長老は顔をあげた。他三人も、彼らの入る場所を空けてくれる。
「昨夜はよく眠れましたか?」
「ええ、おかげさまで。久しぶりにぐっすり休ませていただきました。仕事が終わってからまたしばらくお世話になるかと思いますが、よろしくお願いします」
ぺこりと頭を下げた志之助を見やって、征士郎は複雑な顔をしていた。
お世話になるためには生き残らなければならないのだ。術が失敗したら、世話になるどころの騒ぎではない。
そんな事情はおくびにも出さない志之助が、少し恨めしくも思えた。
「昨晩、中村様とも話し合いまして、禁呪を使うしかないと結論を得ました。風魔の方々にもご協力いただかなければなりませんが、二、三、頼まれていただけますか?」
話を聞いてどんどん表情を険しくしていく年寄りたちに、志之助はにっこりと笑いかける。
征士郎は、始終押し黙ってそこに座っていた。何も言うべきことはないし、何か言うべきでもない。口を開けば、やはり止めよう、と言ってしまうのもわかっていたのだ。
志之助の、風魔忍軍に対する頼みごとは次のようなことだった。
一つ、天狗たちをどんな手を使ってでも芦ノ湖へ誘き出すこと。
一つ、志之助と征士郎の行動の一切に手を出さないこと。
一つ、祈祷台を湖に向かうようにして箱根神社の正面に設けること。
長老は、禁呪を使うとの一言で、腹を決めたらしかった。
禁呪というからには門外不出であるはずだ。しかも、知識では知っていても使ったことなどあろうはずもない。つまり、賭けに出ると言われたも同然なのである。
当然使用には責任者である僧正の許可は得ているのだろうが、それだけの術を使わなければならないほどの問題だということは簡単に想像できた。天狗問題は、比叡山の代表として遣わされた僧侶をもってしても厄介な問題なのである。
そう、『禁呪』の一言で知らされたのだった。
長老に命じられた風魔忍者たちは、全力をもって志之助の頼みをすべて最善の形で整えた。後は、天狗が現われるのを待つばかりである。今頃箱根の山の中を風魔の若い忍び衆が走り回っていることだろう。
日も暮れ、月が頂点に昇った頃。
白装束に身を包み座禅を組む志之助と横で刀を抱えてうずくまっている征士郎のもとに、天狗来襲の知らせが入った。
二人は同時に顔をあげた。いつもにはない緊張感がその頬に見える。
征士郎は刀を杖代わりに立ち上がり、志之助の背後に仁王立ちした。始める、と囁いた志之助に頷き、すらりと刀を抜いて。
月の光を受けて、刀身がきらりと光った。森の上に、天狗の群れが見える。
暖かな殺気を背中に浴びて、志之助は騒めく心を落ち着け、念仏を唱える。
めったに念仏を唱えない志之助が唱えたその念仏は、本当に仏を念じるものだった。一般に使われている念仏とは言葉運びが違う上に、法力を使っているらしい。
自分の中に仏を降ろす。誰でも出来ることではないが、志之助には簡単に出来るらしかった。表情が志之助のものとは思えない神々しいものに変化して、やがて、かっと目を見開く。
禁呪というのは、この先の行為のことだった。
「箱根山の竜神よ。わが血を引き替えとし、汝に申しつける。目覚めよ。そして、汝が地を外敵から護るが良い」
やっと掛け声をかけ、征士郎は振り上げていた刀を両手で勢い良く振り下ろした。生温い返り血を浴び、征士郎は祈りをこめて目を閉じる。
この先は竜神の心と志之助の法力の問題だ。それこそ神頼みより他に救うべき道はなかった。奇跡を待つ身に、時間は実際よりも十倍も二十倍も長く感じていた。
と、その時だった。
かっ、と辺りが一瞬まばゆく輝き、足の形をした細長い湖全体がきらきらと浮かび上がったのである。目の前にいる志之助の身体も、眩しくないやわらかな光を発している。
やがて、ごごごごご、という音とともに湖の中央が盛り上がり、それは天高く細長く伸びていった。まるで水が竜となったような形に、征士郎は術が成功したのだと確信した。
目の前を刺激していた光が薄れ、背中を斬られたはずの志之助は無傷で立ち上がった。
ほっとしたような表情をした志之助を見るのは初めてだった。
傷は癒えても流れた血がその分戻っていないのか、ふらりと征士郎の方へ倒れてくる。その身体をしっかりと支えて、征士郎は現われた竜を見上げた。
箱根の湖には、伝説に言われるとおり、やはり竜が棲んでいたのだ。
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