壱の9
翌朝。
お菊は朝食の片付けを手伝いながら、隣にいる志之助に話しかけた。征士郎は寺子屋にしばらく休む旨を伝えに出掛けている。
「志之助さんは、どうしてあたしを助けてくれるんですか? 命が危ないかもしれないのに」
「あれ? 最初に言わなかった? こんな可愛い子を助けなかったら、男失格ってね」
答えてやって、くすくすと笑う。お菊は何やら泣きそうな顔で志之助を見つめていた。自分のせいでこれ以上人が犠牲になるのが不安なのだ。
ここまで逃げてきた間に、何人も殺されている。目の前にいるこの自信たっぷりの元修業僧だって、今までの二の舞にならないとは言いきれないのだ。できることなら、この場から逃げ出してしまいたいくらい、お菊は不安なのである。
それに気がついたのか、笑っていた志之助は急に真面目な顔をした。
「俺ね。せいさんに出会うまで、人を助けたいって思ったことがなかったんだ」
「お坊さまなのに?」
「そう、坊主なのにね。自分のことで手いっぱいで、他人を助ける余裕、なかった。力はあっても、それを使う気になれなかったんだよ」
力? お菊は首を傾げる。
そもそも、普通の僧侶に特別な法力はない。志之助のように法力を使って色々できてしまうのは、それなりに修業を積んだ僧侶に限られた。その辺の寺の住職程度でできるものではないのだ。
そのため、一般の民には僧侶がなにがしかの不可思議な力を持っていることすら信じられていない。そんな力を持っている坊主は身近にはいないのだから、仕方のないことである。
うん、と志之助は頷いてみせた。
「昔から、不思議な力を持っていてね。大きくなるにしたがって、その力を自分で押さえられなくなってきて、それを押さえこむために修業を始めたんだ。比叡山だけじゃ足りなくて、高野山にも出入りしたし、陰陽師にも弟子入りした。そうしてできた俺の力って並みじゃないから、それを見た人を怯えさせてしまう。助けてもその相手に怯えられたんじゃ、割に合わないだろ? でも、せいさんは違った。俺の力を見ても、頼りにしてくれて恐がりなんてしなかったし、同じ人間として見てくれた。師匠ですら恐がってたのに。それでね、せいさんと一緒にいて自分やせいさんを守るために力を使ってて、人助けっていいもんなんだって気がついたんだ。自分の持っている力を少し使うだけで、たくさんの人が助かるのなら、使ってやったらいいじゃないか、って。感謝されたいからじゃなくて、自分の自己満足のために人助けしたらいいんだって。そう思ったら、気が楽になってね。今じゃ、困ってる人を助けるのが趣味になった。お菊ちゃんも、その一人」
「あたしも?」
「そう。俺の目に映った困ってる人を、助けてあげたいんだよ。それだけなんだ。だから、お菊ちゃんはそんなに気にしなくていいんだよ。大船に乗ったつもりでいて。俺は絶対に負けないから」
ね、と言われて、お菊はまだ不安な目をしていたが、小さく頷いた。それだけだったが、志之助は満足そうに笑った。
やがて、勝太郎に言いつけられた、加助が中村屋に顔を出した。店を開ける準備をしていた志之助が加助を見つけて、深々と頭を下げる。
「おはようございます。中村のお家の方もお忙しいのに、大変なことをお願いしまして、申し訳ありません」
「いえいえ。旦那様のお言いつけでなくとも、お手伝いいたします。あの広いお屋敷に一人でいるより、よほど張り合いが出るというもの。ああ、旦那様には内緒ですよ、これは」
「怒りゃあしないよ、兄上は。昼間は加助も暇だろうから、なんておっしゃってたからねえ」
寺から戻った征士郎が加助の背後から声をかける。二階からお菊が下りてきて、見知らぬ人を見つけ、あわてて姿を隠した。志之助に手招きされて、やっと下りてくる。
「お菊ちゃん。今日からお店をお願いする加助さんだよ」
「おじょうちゃんがお菊ちゃんかい。災難だったねえ。今日からはあっしがこの店を手伝いに来ますから、よろしく頼みますよ」
「……よろしくお願いします」
段の上に立って彼らを眺めていたお菊が、あわててそこに座り、深く頭を下げた。立ち話もなんだからと志之助は彼らを中に入れる。
[ 10/253 ][*prev] [next#]
[mokuji]
[しおりを挟む]戻る