第三幕 箱根竜神編 1
箱根の山は一日で越えなければならない。それが旅人としての常識である。
この常識を平気で破るのは、おそらくこの日本中、北は蝦夷から南は九州薩摩まで、どこを探しても志之助だけだろう。
征士郎は、この夜何度目かの溜息をついた。これで知らなかったと言い訳でもするなら可愛げがあるのだが、志之助の場合わかっていてするのだから始末におえない。
三島の宿場を過ぎたのが昼もかなり過ぎたところだった時点で、征士郎は何度も呼び止めたのである。志之助はというと、大丈夫を連発してどんどん先へ行ってしまっていた。
普通は、まだ午前中であったとしても、三島で一泊してから箱根越えをはじめるものなのである。まずは関所より西側を越え、関所を無事抜けられれば、その日のうちに小田原へ入る。これが正常な旅人の箱根越え日程だった。そうでなくとも、せめて箱根七湯の温泉宿に逗留するのが普通だ。
志之助の場合、この日程は軽く無視である。もともと比叡山やら高野山やらと山育ちの志之助ではあるが、どうやら箱根の山賊やあやかしの類が恐くないらしい。それとも、例によって何か考えがあるのだろうか。
「おーい。しのさんやーい」
「なんだい、せいさん。そんな似合わない台詞回しで大声出さなくても聞こえてるよ。隣にいるんだから」
「ならば、ずっと言っていた明日にしようという俺の言葉も聞こえていただろう?」
さあてね、と志之助はいつものように嘯く。
夜も更けてきた頃である。夕方に山を登り始めてから、征士郎は引き返そう引き返そうと言っていたのだが、ここまで来るとさすがにもう、関所の方が近いらしい。
それにしてもだ。戦国時代に大活躍していたこの箱根の風魔忍軍は、まさか顔を出したりしないだろうな。
先程から、征士郎の頭の中をぐるぐると、そんな疑惑が回っている。
この箱根の名物といえば、豊富な温泉と風魔忍軍だった。関東一の機動力を誇っていた風魔忍びの生き残りが、まだ箱根をうろうろしているのだという。
もしかしたら山賊よりも厄介かもしれないという噂は、遠く江戸の町まで広まっていた。山賊にあったならそれは人の災厄だが、風魔忍軍に出会ったら天の災厄と思え、とまで言われている。それだけ恐ろしい相手なのだ。
そんなことを恐る恐る志之助の耳元で言っていると、突然志之助が笑った音がした。ちなみに、月夜ではあるが、隣を歩いている征士郎が志之助の顔を判別できないほど、暗い道である。
「あんまりそんなこと言っていると、呼び寄せてしまうよ。風魔忍びさんたち」
今回は願ったり叶ったりだけどね、と立ち止まって呟くのを辛うじて聞いて、征士郎はやっぱりと肩をすくめた。嫌な予感はしたのだ。征士郎も立ち止まる。
確かに、征士郎と志之助が手を組めば、その辺の山賊など物の数ではないし、あやかしなど志之助の専門分野である。
しかし、だからといって、好き好んで暗い山道を強引に突き進むほど、二人は急いでいるわけではないのだ。とすれば、この強行突破には何か裏があると考えるのが自然だった。
その考えが、見事に的中した、というわけなのである。
今回は、という言葉に悟らされた。話題の風魔忍軍に取り囲まれてしまっていたらしい。
「おぬしら、何者だ。何故わざわざ危険と名高い箱根の山を夜夜中に越えようとする」
「あなたたち風魔のおかしらにお会いしたかったんですよ。怪しい者ではありません。天狗に頭を悩ませているのではありませんか?」
天狗?
征士郎は何が何やらという顔をして志之助を見やった。とはいえ、顔はあいかわらず見えない。
まわりを取り囲んだ風のような気配が、少し動揺したのが辛うじてわかった。これはもう、道場で訓練した成果としか言いようがない。
やがて、ぽう、と辺りに火が灯る。それが小田原名物の提灯とわかったのは、しばらくしてからだった。
「おぬし、何者だ。身を証せ」
「比叡山修業僧の、志之助と申します。天台座主の命を受け、参上いたしました」
さわさわと風の音がする。それはどうやらまわりを囲んだ忍びたちの騒めきだったらしい。頬に風があたらない。
やがて、ひとつの提灯が近付いてきた。征士郎と志之助の顔を照らしだし、持ったその男の顔も浮かび上がらせる。
「ついてまいられよ。詳しくお話しいたそう」
この台詞から察するに、比叡山からの使者がやってくることは話がついていたようだった。
征士郎は恨みがましい目をして志之助を見やり、盛大に溜息をついた。
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