第二幕 駿府不死人編 1
胸のあたりに暖かくふさふさしたものが当たっているのを感じて、気持ちの良さにもう少し浸っていたい気分を味わいながら、征士郎は目を覚ました。
久しぶりに暖かい布団で眠ったせいで女を抱くような幻覚を感じているのかもしれない。
とろとろと夢うつつのまま、征士郎はその胸のふさふさを撫でた。長い髪のようだ。ますます女を抱いている気になってくる。
そのふさふさが身動きをしたのを感じて、征士郎は微笑を浮かべながら目をゆっくりと開けた……。
「だから、悪かったってば。もういい加減に機嫌直しとくれよ」
志之助は宿据え置きの浴衣のまま髪も結わず、目の前の膳に置かれた箸を取って笑った。
すぐ側に漁港があるおかげで、朝から新鮮な魚が食べられる幸福を顔いっぱいに表現している。
向かい合っている征士郎は、むすっとした顔で茶碗を手にとっていた。ここ何日か髭を剃っていないらしく、不精髭がのび放題になっている。頭はざんばらに切られていて櫛を通す必要もなさそうだ。
「だいたいだな、しのさん。せっかく気持ちの良い布団を二枚も用意してくれたというのに、人の布団の中に潜り込んでくることはなかろう」
「だから、悪かったって。でも、せいさんだってあまりほめられたもんじゃないだろう。俺を女と間違えるなんて」
「こんなぬくぬくした布団で胸元に結いもしないさらさらの長い髪があれば、誰だって遊廓を思うに決まっておろうが」
「そんなこと思うの、せいさんくらいだよ」
何言ってんの、と志之助は呆れた顔で焼けたアジの開きをつついた。
征士郎の機嫌はすこぶる悪い。朝から男に抱きつかれていれば、どんな男だろうと気持ちの良い朝とは言えないだろう。その状況下に征士郎はいたのだ。
志之助と征士郎がともに旅をすることになって、まだ三日目の朝だった。
「そんな機嫌の悪い顔をしていては、旨い魚がまずくなってしまうよ。お詫びに髭を剃ってあげるからさ。それで機嫌を直しておくれでないかい?」
むっとした顔のまま、征士郎はそう言う志之助を上目遣いに見上げた。ね、と笑ってみせる志之助に、征士郎は仕方なく頷く。
ほっとした志之助は三杯目のおかわりのためにお櫃を開けた。この細身のどこにそんなに入るのかというくらい、よく食べる男だった。
食事を終えた志之助が髪をとかし始めた頃、膳を下げに一人の老婆があらわれた。
先代女将だというその老婆は、てきぱきと空いた皿を片付けていたが、ふと手を止めると志之助をまじまじと見つめて言った。
「お坊さまがそのように髪を伸ばしてよろしいのですか?」
「よろしくないのですが、何故わたしが僧侶だと?」
人を食った答え方に征士郎があわてた様子を見せたが、先代女将はまったく気にしなかったようだ。志之助も不意打ち的な老婆の問いに少し戸惑いつつも、いつもどおり余裕綽々の笑みを見せている。
老婆はどうやら確信があってそう言ったわけではないようだった。ただ困ったように言おうか言うまいか悩んでいる。その様子に志之助は不意に真面目な顔をしてみせた。
「何か事情がありそうですね。話していただけますか?」
しばらく不安げに志之助を見つめていた老婆だったが、意を決したように頷いて、何やら信じがたい話を真面目な口調でとつとつと語りだした。
それは、信じがたい、というよりも、あまり信じたくない話だった。
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