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 志之助は、自分の短刀を寺において来てしまったことを、心の底から後悔していた。

 刃物の雨を避けながら拳を繰り出すが、当たる気配はない。それはそうだろう、逃げるという行為で腰は引けてしまうものなのだ。

 田と田の間の狭い畔道で、志之助と四人の男たちは乱闘を繰り広げていた。

 志之助は少々どころでなく分が悪い。何しろ、人数的にも不利であるというのに地の利は向こうにあるのだ。その上、髪を結っていた紐もいつのまにか解けてしまっていて、かなり視界が悪い。

 せめて相手がこの半分の人数であれば、遠慮なく叩きのめすものを。そんな風に思いながらの立ち回りだ。分は悪いが、負ける気もないらしい。

 突破口が見出せず、逃げ出しはしないものの、敵の間をひらりひらりと踊るように逃げ回っていた志之助は、ふと、向こうの方から走ってくる男を見て驚いた。ついさきほど逃げろと言ったはずの征士郎だった。

「志之助殿ーっ」

 しゃっと刀を抜いて、征士郎は乱闘に交じってくる。こちらに加勢してくれるらしい。

 味方の参上は、志之助にとっては、ようやく見出された突破口だ。これを逃す手はなかった。

 突然現れた闖入者に驚いて、地元の荒くれ者たちが攻めの手を考えあぐねて動きを止めた。

 その隙を、志之助が見逃すはずはない。一度深く息を吐き、志之助は身体から力を抜いた。一人では敵に攻撃する隙を与えてしまう、自分が会得していた体術は、もう一人いてくれるなら話は別だ。

 味方が二人になれば、敵は意識を二点に分散させなければいけない。そこに生じる隙が、志之助の待ち望んでいたものだった。

「中村様っ! 人に傷つけないで!」

 おうっ、と答えて、征士郎は刀を振るった。

 刃を返し、峰で相手に打撃を与える。いつもそうしているのか、手つきは慣れたものだ。

 志之助は、今までの喧嘩腰とは全く違う、古武術を使っていた。身体に余分な力もなく、踊っているようにさえ見える。逃げる、という思考がないのか、相手の刃物ももろともせず、近い間合いから技を繰りだすそれは、攻撃は最大の防御なりという言葉に頷かされるものだった。

 ぐえっと蛙がつぶれたような声を上げて、男が一人征士郎の刀に叩き臥せられるのと、志之助の蹴りに最後の一人が悲鳴もなく飛ばされたのはほぼ同時だった。

 そこで、征士郎は信じられないものを目にすることになった。

 志之助に蹴り飛ばされた男の口の中から、霧のような白いモノが抜け出てきたのだ。

 まるで魂が抜けたところを目撃してしまったようで、征士郎はあんぐりと口を開けたまま立ち尽くしてしまった。

 まわりを見回すと、そこに叩き伏せられた男たちの口からつぎつぎと同じようなものが抜けてくるのが見えた。

 ふと、風に乗って聞こえてきたのは、志之助が呟く念仏のような声。口元に右手を軽く当てて、何事かを唱えている。

「志之助殿?」

 この怪奇な現象に、まるで拝み屋のように不可思議な行動をとっている志之助が、無関係とは思えない。征士郎の問いただすような声に、ひょいと視線を返した志之助は、それから目元をふわりと微笑ませた。

 それは、京や奈良の寺院に鎮座する、古い仏像が見せている表情に良く似ていた。観音菩薩や各種の如来像が浮かべている、衆生を救済する慈愛に満ちた微笑み。

 現在のこの世のものと思えぬ事態と相まって、本当に菩薩が志之助の身に降臨したかのようだ。

 だが、それは一瞬のことだった。

 視線を正面に戻した志之助の表情は険しく、ふよふよと風に吹かれているような頼りなさで寄り集まっていく人魂もどきをじっと見つめている。

 集まったその煙のような霧のような塊は、やがて人のような形に変化する。逞しい筋肉に覆われて甲冑を身につけ、頭髪を炎のように逆立てた、武神のごとき姿。その表情は、憤怒というよりは悲憤に近い。ぎょろりと開いた目と食いしばった口元、悲しみを表すように眉がゆがみ、眉間に皺が寄っている。

 それは、寺院を守る仁王像のようにも見えた。体長は征士郎の身長の倍はあるだろう。さらに、その身の丈にあわせてがっしりした体格に見合う厚みもある。

 霧がその姿を完全に変化させると、宙に浮いたその武神を見上げ、志之助は口の中で唱えていた呪文を止めた。口元からも手を離し、じっと武神を見上げる。

「そなたを遣わした呪者の元へ帰りなさい。そなたの仕事はここにはない」

 途端、霧の武神が怪訝な表情を見せた、ように征士郎には見えた。さぁ、と東の空に志之助が指を指し示すと、その指を追って武神もそちらを振り返る。

 次の瞬間、悲憤であった表情ははっきりと憤怒に変わり、飛ぶ矢のごとき勢いで空のかなたへ吹き飛んでいった。

 見送って、征士郎はしばらくその場を動けなかった。





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