第一幕 藤枝出会い編 1




 その宿場を訪れた時、男は一人だった。

 東海道、藤枝宿。海沿いの街道ながら、この宿場は険しい山に囲まれた森の中にあった。

 足場の悪い道を歩いてきた疲れも、目の前の光景に多少気を奪われて忘れてしまったようだ。

 無精髭をざらりと撫でて、男はふーむと唸った。

 灰青色の小袖に濃い灰色の袴で、全身灰色な格好だが、長旅のせいか袴の裾はボロボロで、いかにも浪人風に見えるいでたちだ。腰に挿した一本の太刀も、たいした装飾もなく実用品の扱いだった。

 名を、中村征士郎という。太くはないもののがっしりした体格で、無精髭にザンバラ髪のせいか、二十三歳という年令にしては老けて見える。どこからどうみても、というほどに、典型的な素浪人だ。

 征士郎の目の前には、人だかりができていた。円を描いて、宿場町の真ん中に集まり、やいのやいのと囃し声が聞こえてくる。

 それを遠巻きに眺めて、唸っていた。その囃す声や男の悲鳴などから察するに、どうやら喧嘩らしい。

 これが江戸であるならば、火事と喧嘩は江戸の華とばかりにそれを見物するところだが、ここは駿河国である。見たところ取り締まる人間もいないようだし、刀挿しの姿も見当たらない。おそらく、身分的には自分が一番上なのだろう。

 さて、ここは見物していいものか、止めるべきなのか、と悩んでいたわけである。

 だがまぁ、こんな離れた位置では必要な情報も集まらない。とりあえずその野次馬に紛れ込もうか、と足を踏み出した征士郎の耳に、盛夏に渡るそよ風のような柔らかさながら、その存在をはっきり主張する凛とした声が、割り込んだ。

「おい、てめえら。いい加減にしやがれ、ざかあしい!」

 それは、征士郎の背後から聞こえてきた声だった。驚いて振り返れば、腰に手を当てて仁王立ちした美人がいた。

 長いらしい髪を首の後ろで紫の細縄で結いまとめ、淡い藤色の着流し姿。細くすらりとした体躯は、華奢にすら見える。年の頃はおそらく二十代前半。この土地の人間にしては洗練された物腰で、どうも旅の途中らしい。足元は擦り切れかけた草履で、つま先は完全に土を踏んでいた。少し裾が短く見えるのは、どうやら女性のように帯で端折っているらしい。

 表情も険しくこちらを睨み付けているその容貌は、しかし、仁王というよりは憤怒の観音といった方が適切だろう。整った顔立ちが余計に畏れを抱かせる。

「そんなに喧嘩がしたけりゃあ、俺が相手になってやる。さあ、かかってきてみろ」

「……し、志之助!?」

 ひいっと悲鳴を上げて、そこに群がっていた十人ほどの男たちが蜘蛛の子を散らすようにばたばたと逃げていった。

 さらりと長い髪を、さも鬱陶しそうに掻き上げ、美人は溜息をつく。その挙動の一つ一つが、江戸で人気の浮世絵師が描く美人画のようだ。

「いよっ、しのさん!」

「あんたたちも囃してないで止めなよ、喧嘩くらい」

 疲れたように、とも、呆れたように、とも取れる仕草でそう言って、彼は足元に置いていた籠を背負い、こちらに背を向けた。そのつれない姿がまた、男女共に人気を集めているらしく、男も女もうっとりとした目で彼の後姿を見送っている。

 彼が五歩ほど歩いたところで、ようやく周囲に満ちていた幻想的とも言える空気が取り払われたらしく、野次馬たちもそれぞれに仕事に戻っていった。

 征士郎は、まるで引き寄せられるように、彼を追いかけ始めていた。




 追いかけられていることに気づいていないのか、彼はのんびりとした足取りで宿場を抜け、集落のはずれに建つ寺の門をくぐっていった。

 小さな寺だった。檀家の代々の墓を預かっているようで、建物の裏には墓石が並んでいるのが見えるが、周りは用水路で取り囲んでいるだけで、塀らしいものもない。

 門の前から中を覗けば、境内では、近所の子供たちらしい、四、五人が楽しそうに走り回っている。

 そこに、今しがた入っていった彼の姿は見当たらなかった。

 おかしいな、と征士郎は首を傾げ、慌てて刀を抜き振り返った。刀には懐刀ていどの短刀の刃があたっていた。野性の勘が、自分を襲ったらしいその短刀を防いだらしい。

「何奴っ!」

「宿場っからずっとつけてきといて、そりゃあないでしょう、お侍さん」

 その声は、自分が追って来た美青年のものだった。どうやら勘づかれていたらしい。ゆっくりと刀を引き、青年はそれを鞘に収めた。

「どうして俺を追って来なさった?」

「……いや、どうしてといわれても……」

 征士郎は困って頭に手をやる。そうしてがしがしと頭を掻いた。その仕草をじっと見ていた青年は、やがて表情を和らげ、寺を示した。口調も改まっている。

「しばらく風呂にも入られておられない様子。よろしければこの寺の物をお借りなさればいい」

 くすっと青年は意味深な笑みを見せた。寺の中から袈裟を着た老人が姿を現す。

「おお、志之助殿。帰られたか」

「はい。お客人です、和尚様」

 先程も喧嘩を仲裁したその大きな声で答えて、彼は征士郎に笑いかけた。

「俺もこの寺に厄介になっている旅の者です。志之助と申します」

「拙者、中村征士郎と申す。見ての通りの浪人者だ」

 ようこそ、西園寺へ。そう頭を下げて、志之助はにっこり笑った。





[ 120/253 ]

[*prev] [next#]

[mokuji]

[しおりを挟む]


戻る



Copyright(C) 2004-2017 KYMDREAM All Rights Reserved
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -