壱の8
ペッタペッタと、わざと草履を鳴らして志之助が長屋へ帰ってきたのは、日もとっぷりと暮れてからだった。
店はとうに閉まっていて、志之助が裏口へ回ると中から楽しそうな笑い声が聞こえてくる。戸を叩くと、征士郎が笑いながら戸を開けてくれた。
「どうしたの? なんか賑やかだね」
「おかえり、しのさん。今、兄上とおつねさんが来ていてな」
なるほど、と志之助は納得した。征士郎とお菊だけでこんなに賑やかなわけはないとは思ったのだが、長屋一のお転婆娘と征士郎の兄とも思えない明るさの勝太郎がいるのなら、この賑やかさも頷けるというものだ。
「おお、志之助殿。ようやく帰られたか。待ちかねたぞ」
「申し訳ありません、勝太郎殿。少々遠出をしておりましたもので」
「ああ、征士郎から聞いた。日本橋まで行っていたとか?」
この調子だと、この騒動の一部始終を知っていそうだ、と志之助は軽く肩をすくめた。
「で、どうだったね。近江屋の様子は」
征士郎が言うより先に、勝太郎が興味津々の体で尋ねてくる。おつねもどうやら気になってここにやってきていたらしい。まあ、朝の騒動で手を煩わせてしまった手前、隠すわけにもいかないだろうし、その必要もない相手である。
「近江屋さんは、それはそれは静かなものでしたよ。というより、人っ子一人いませんでしたね。近所の評判もなかなかのもので、怨恨の線はなさそうですし、上野で何か事件に巻き込まれてしまったというのが妥当でしょう。で、どうやらその巻き込んだ相手というのは、近江屋さんを知っている様子ですよ」
「ほう? それらしい奴を見つけたか?」
「見つけたうえに、ちょっとひねって口割ってきた」
それは偉い、と征士郎は素直に志之助を誉めてやる。特に偉くもなんともない当たり前のことなのだろうが、志之助との長旅で培った志之助のご機嫌をうまく取るコツなのだ。
志之助も誉められるのは好きなので、もっと誉めてとばかりににっこり笑って征士郎を見上げている。どうやら少年時代に一度も誉められたことがなかったその反動が、こういう性格を作ってしまったらしい。
「といっても、下っぱも下っぱだったらしくてね。近江屋に出入りする奴は一人残らず始末しろって言われて、店先を張っていたらしいんだ。取り逃がしたのを一網打尽にしたいみたいだね。他に行き先のない奴もいるだろうからってさ」
他に行き先がない者といえば、住み込みで奉公している人くらいのもので、ということはお菊もターゲットになっているのだろう。こんな少女一人をあんな大勢で追いかけて、しかも店の前に張りこんでまで捕まえようとしているのだから、よっぽどの事件に巻き込まれたのだ。捕まったら殺されるのだろうとまで想像がつく。
「それで、収穫はそれだけか?」
「と思う?」
「本気でそう思ったのなら聞かないさ。お前さんのことだから、そのやくざ連中の正体くらいはつきとめてきたのだろう?」
ちなみに、勝太郎もおつねも、志之助の非常識さはよくよく知っている。それに助けられたことがあるから、その非常識さを信頼してもいる。
せっかく征士郎に誉められたのに、少し不機嫌な様子の志之助は、さらに眉をひそめた。
「勝太郎殿、坊主って信用してます?」
「うーん、どうかな。頭っから僧侶なら誰でも信用する、とはいかないことはわかっているが、できれば仏に仕えるものくらいは信用したいな」
「おつねさんは?」
「信用するもなにも、志之助さんがお坊さんでしょうに。志之助さんは信用してますよ」
「お菊ちゃんは?」
自分に尋ねられるとは思っていなかったのか、突然聞かれてびっくりして顔をあげたお菊は、少ししてはっきりと首を振った。つまり、そういうこと、と志之助はそれで結論づけてしまう。
どういうことだかさっぱりわからなかった勝太郎とおつねは顔を見合わせて首を傾げ、それから征士郎を見やった。
征士郎はさすが相棒、わかったらしい。なるほどな、と言ってお菊を自分の腕の中に抱き寄せる。寺子屋で一日過ごして、仲良くなったらしい。
「お坊様なんて、もう絶対信用しません。志之助さんもお坊様なら信用できない」
「ちゃんとした坊主は髪なんて伸ばしてないよ。俺も坊主が信用できなくてお坊さんやめた人なの。それなら、信用してくれるかな?」
それなら、とお菊は頷く。志之助はうれしそうに笑ってありがとうと言った。
つまり?と勝太郎が何となく察したらしく確認する。
「つまり、その正体が、僧侶だと?」
「やくざ者は、その僧侶とどこかしらでつながっていて、命令だか依頼だかを受けた人たち、というところでしょう。近江屋の人々を巻き込んだ事件というのは、僧侶たちが起こしたもので、一般人には知られてはならないことだったということですよ。僧侶が殺生の禁を破ってでも守らなければならない秘密を、近江屋の人々に知られてしまった。つまりそういうことです」
そんな秘密があることの方が問題ですけど、と殺生をためらったことのない元修業僧はそう言った。
「でも、殺生の禁を破ってまで隠さなきゃいけないことって、何かしら?」
そんなことがあるの?とおつねは首を傾げる。僧侶がそんなことをするはずがないという頭があるから、余計信じられないのだろう。
勝太郎も自分の身近にいる僧侶が菩提寺の和尚とこの志之助だけということもあって、信じられない表情をしている。あっさりと納得してしまえるのは、志之助のそばにずっといる征士郎くらいのものだ。
「俺が思いつくのは、呪咀くらいのものだな」
「どうして?」
征士郎の発言に、志之助は何だか嬉しそうにまぜっ返す。何でもかんでも聞かれるよりは、こうして考えてもらえたほうが会話として楽しい、というのが志之助の基本的なものの考え方だ。そうでないと、一方的にしゃべってばかりで相手がどれだけ理解しているのかもわからないし、話す方としても張り合いがないという。
「いつだったか、しのさんが教えてくれただろう。たいていの呪咀は、それを行なっているときに他人にその姿を見られてしまうと、自分に何倍にも膨れあがって跳ね返ってくる、と。それを防ぐには、見た人を一人残らず殺すしかないのだろう?」
だから、呪咀を行なっているちょうどその場面を目撃してしまった近江屋の人々を一人残らず殺そうとしている、ということらしい。どうだ?と確かめるように志之助を見た征士郎に、志之助はちょっと残念そうに微笑んでみせた。
「それ、もう一つ条件がなかった?」
「条件? ……ああ、呪咀を行なう時間は日が暮れてから、だったか」
ならば違うな、と征士郎は軽く肩をすくめた。こくっと志之助も頷く。
「他人に見られて跳ね返ってくるような呪咀はね、たいてい丑三つ時にやるものだよ。朝っぱらからなんて、見てくださいって言ってるようなものだし、しかも霊魂が眠るお墓のそばでやるようなことじゃない。それに、その程度の呪咀なら別に僧侶がやる必要もない」
丑の刻参りなど、恋に狂った女がやるもの、と相場が決まっているくらいだ。その手のことのプロである僧侶がわざわざやることでもないし、そもそも僧侶というものはもっと確実な呪法を知っているものである。
「でも、呪咀というのは合ってるかもしれないよ」
つい先ほどきっちりと否定した口で、志之助は舌の根も乾かないうちにまったく正反対のことを言う。
いや、まったくということもない。跳ね返ってくるような呪咀は、とわざわざ限定していたのだ。つまり、人に見られてもいっこうに影響はない呪咀である可能性なら、否定できないわけだ。
「それこそ袈裟をかけることを許されるちゃんとした僧侶にしかできない呪咀ならね。ありえない話じゃない。呪咀なんて、僧侶の範囲じゃなくて陰陽師の範囲なんだけどね。陰陽道自体が道教や仏教を土台とした和製密教みたいなものだから、密教僧ならできてもおかしくない」
ちなみに比叡山を総本山とする天台宗も、一応密教である。高野山を総本山とする真言宗の方が本家本元であるというだけで、どちらも密教にはかわりないわけだ。天台宗は、真言密教と区別して天台密教といわれている。だから志之助は、天台宗の僧侶をためらいもなく密教僧と呼べたわけである。
「しのさんは、当然できるのだろう?」
「俺ができない呪法が施せる僧侶なんて、天台僧にはいないと思うけどな」
これは例え比叡山の大僧正であったとしても、否定することができない。志之助こそ、法力の強さと山での地位とが必ずしも一致しないという良い例である。何しろ、志之助はあっさりと禁呪を施してしまえる人間なのだ。
「志之助さんって、やっぱりすごく偉いお坊様だったんじゃないの?」
あっさりとすごいことを言っている志之助をぼうっと見ていたおつねが、もう聞きたくて聞きたくてたまらないというようにそう言った。いいや、と志之助と征士郎は揃って首を振る。どんなに強い法力を持っていようと、どんなに膨大な知識を持っていようと、志之助の天台宗での地位は一介の修業僧だったのである。これは疑いようもない事実だ。
「偉くはないよな、しのさん」
「何さ、偉くはない、って」
「いや、すごくはあるだろう?」
「う。そうかもしれない」
とりあえず、法力と神仏に関する知識は並の僧侶以上にあるということは自他共に認めているので、志之助も否定することができなかったりする。
まあね、程度で濁しておけばいいものを、こうやって答えをつまらせてしまうのは、志之助唯一の弱点にかかわっているからだろう。自分でも持て余してしまうほどの巫体質である、という弱点だ。
「そんなことは置いておいて。お菊ちゃん、そろそろ話してもらえないかな? どうしてあんな男たちに追いかけられていたのか」
話は振り出しに戻された。何しろ、これが現時点で最大の問題なのである。何故追われていたか、何を見たのか。それがはっきりすれば、手の打ちようは無数にあるわけだ。
先程までの話は、すべてお菊に信頼してもらうためのものだったのである。どんなことでも話して大丈夫な相手であるということをわかってもらうために、できれば誰にも知られたくない志之助の正体をこうしてあっさりばらしたのだ。
もちろん、ここにいるのが勝太郎やおつねという、とっくに知っている相手でなければ話さなかっただろうが。
そして、狙いはどうやらうまくいったようだった。自分が体験した話を隠しておくことが、まったく意味をなさないことを理解してもらえたのである。
「今朝、先代様のお墓参りに行く途中で見てしまったんです。大旦那さまが近道だからといって選んだ道の途中にあったお堂で、何か不気味な呪法が行なわれていたんです。お堂の中までは見てないんですけど、そのまわりを取り囲んでいた人相の悪い人たちとか、何だかすごく偉いお武家様とか、たくさんいて。最初に追いかけてきたのは、お坊様でした。でも、お坊様なのに刀を持ってたんです。それで、大旦那さまに、逃げなさいって言われて。ここに来るまでに色々な人に助けてもらったんですけど、その人たちにこの話をすると、みんな殺されちゃったんです。だから、恐くて言えなくて」
大旦那さまを助けてください、とお菊はすがるような目でそう言った。志之助がその目を受けて征士郎を見やる。おつねと勝太郎は征士郎と志之助の反応をじっと待っていた。引き受けなかったら怒るぞ、というように。
「助けられるかい?しのさん」
「まだ殺されていなかったらね。相手が寛永寺ってところが、ちょっと気が進まないところだけど」
「ふむ、その一点につき、同感だな。だが、引き受けるのだろう?」
「お店、休まなくちゃ」
あぁ、と征士郎がその問題に気づく。征士郎も、寺子屋を休まなければならないのだ。これは困った。
「店なら、加助を寄越そうか?」
「寺子屋はどうします?」
「俺が引き受けよう、と言いたいところだが、俺も何かと忙しいしなあ。おつねさんはどうだい?」
「あたしじゃあ、先生になりませんよ。学がないですからねえ」
ということは、寺の住職に迷惑をかけるしかないということか。
「仕方がない、住職に頭を下げよう」
「悪いね、せいさん。なるたけ早く片つけるから」
「ああ、そう願うよ」
思ってもいないことをさらっと答えて、征士郎は笑って見せた。征士郎としては、頭を下げることも職を失うことも、さして大きな問題ではないのだ。志之助の相棒でいられなくなることに比べたら、些細なことだったりするのである。
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