十年目の疑惑 1 R18
最近、志之助の様子がおかしい。
相変わらず麻縄の小分け作業を手伝っている征士郎は、ふと手を休めて志之助に目をやった。
出会ってからほぼ十年。その間、確かに経てきた年をまったく感じさせないほど、志之助はいまだ若々しさを保っている。それはおそらく、彼を守護している仏尊やら式神やらの影響によるものなのだろう。
無精ひげ面が年相応に似合ってきた征士郎は、少し白髪が混じり始めた頭をガシガシと掻いた。
たとえば、今征士郎の目の前で繰り広げられている光景。志之助が最近おかしいと思える根拠の一つだ。
そこには、まだ二十歳そこそこと見える若者が、小間物を求めにやっていた姿があった。
この場所は武家屋敷町に程近い場所に位置していて、こうして若い武士が買い物に出かけてくる姿も珍しくは無い。だが、この相手は、このところ毎日だ。さすがに、志之助に会うためにちょくちょくやってきているのではないのかと勘繰ってしまう。
勘繰ってしまうが、まさかしのさんに限って、とも思うから、頭を振ってその疑惑を振り払う。
と、いつもは店の隅の方で丸まって昼寝をしている二股の尻尾を持つ三毛猫が、ひょこひょこと征士郎の胡坐のそばに近寄ってきて、可愛い小さな手をその膝に乗せた。
どうやら、同情されたらしい。
「せいさん。ちょっと出かけてきますから、店番お願いします」
猫にまで同情されてがっくしと肩を落としていたせいで、見事に反応が遅れてしまった征士郎がそちらを振り返ったとき、そこに見えたのは志之助の後姿だけだった。
あの若い武士としばらく話し込んでいたと思ったら、自分を置いてさっさと出て行ってしまうとは。
「やっぱり、何かおかしい」
『気のせいじゃないかい?』
ケラケラっと、猫の喉では無茶な笑い方をして返して、その名もミケという安直な名前をつけられた猫は、いつもの位置に戻って丸まった。
結局、一刻ほどしてから戻ってきた志之助は、特にその間何をしていたかなどの報告はしなかった。それが余計に征士郎の疑惑の念を募らせるのだが、征士郎の意識をたまに読んでしまうおかげで征士郎の感情の起伏には実に敏感な志之助は、珍しく気付かないらしい。
夕方の慌しさを越えると、町内に夕飯の支度をする包丁の音と美味しそうな匂いが漂い始め、中村屋の店先に幼い男の子を二人つれた美人女性が姿を見せる。征士郎の実兄の嫁であるおつねと、二人の愛の結晶たちだ。
やがて日が暮れて、子供たちに手伝わせて店を閉めると、ちょうど良い頃に征士郎の兄、勝太郎も姿を見せ、全員揃っての夕餉となる。こうして、平凡な一日は過ぎていくのだ。
食事が済んでしばらくゆっくりしたあと、子供たちが遊びたくてうずうずしだす頃を見計らうように、仲の良い親子は本来の住居のある神田川の向こう側へと帰っていく。一緒に家を出て、二人は風呂屋へ行くのが、これもまた日課だった。
実に単調ながら、着実に幸せの時を刻む。至福の時間が流れていく。
そのはずなのだが。
「しのさん」
店の二階に位置する二人の生活空間に並べて布団を敷いて、征士郎は硬い表情と声で志之助を呼んだ。売り上げ帳簿をつけていた志之助は、顔を上げたところで手招きをされて、仕事が中途半端なまま、征士郎に近寄る。
座れ、と身振りで指示を受けてそこに膝を突いた途端、手前に腕を引かれて征士郎の腕の中に倒されてしまった。あっという間に圧し掛かられてしまうのは、これもまたいつものことだったりするのだが、それにしては征士郎の視線が厳しく。
きょとん、と目を丸くして、志之助は征士郎に向かって首を傾げて見せた。
「どうしたの?」
征士郎に全幅の信頼を寄せている志之助は、この状況になってもあまりに無防備だった。喉に噛み付かれて、返した言葉は甘い喘ぎ声。喉仏はそれ自体が急所なのだが、人間の身体の急所は優しく愛撫されればそのまま性感帯になる場所でもあって、征士郎に噛み切られる恐怖など微塵も感じない志之助にとっては、ちょっと乱暴なお遊びの一環にしか感じ取れないのだから、無理も無い。
反対に、思った以上に素直に快感を訴えられて、征士郎の方が戸惑った。
「わからないのか?」
「……何かに怒ってるのはわかるんだけど。何? 俺、何かしたかな?」
懐に手を差し込まれて、胸の飾りを撫でられながら、志之助は実に不思議そうに征士郎を見返す。ふと、征士郎の手が止まった。
「……今日、店を空けてどこへ行っていた?」
「今日?」
何の話?とでも言わんばかりの聞き返し方をして、志之助はようやく今日一日を振り返ってみたらしい。不思議そうに志之助が聞き返すから、征士郎からは早々に毒気が抜かれてしまった。志之助の着物をはだけた足の間に腰を下ろし、ガシガシと頭を掻く。
「自覚が無いのか?」
「ちょっと待って、思い出すから。今日……?」
朝食からの今日一日の行動を指折り数えて言って、昼を過ぎたあたりで、志之助はぽんと手を叩いた。
「あぁ〜!あれかぁ!!」
どうやら、思い至ったらしい。
しかし、これだけ思い出すのに時間がかかる事象に、何らかの価値を見出す必要があるのだろうか。まさか自分の思い過ごしか?と思わないでもない状況に、征士郎は神妙な表情で志之助の返答を待つ。
「あれねぇ。恋愛相談に乗ってあげただけだよ。あのお武家様は常連さんだから、一肌脱ぐかぁと思って。……え? もしかして、せいさん、あの人に嫉妬したの?」
恋愛相談?と問い返すと、志之助はこっくり頷いた。
なんでも、この界隈で志之助と征士郎が夫婦であることは暗黙の了解となっている周知の事実であって、それは常連客になっている武士たちにも当然のように広まっていたのだが、その噂が真実であると知った、高村という姓のその若い武士が、同じ性癖を持つ先輩に相談を持ちかけてきたのだという話だった。
つまり、高村もまた、同性愛者であるということで、さらにいうと、その想い人と相思相愛ながら将来を鑑みて最後の一線が越えられないと、そういう相談だったわけである。そこで、一方の相談だけではなく、二人揃ったところで話を聞いてアドバイスをしよう、という結論に達し、志之助がわざわざ出かけて行った、と、そういうわけだった。
「それで、結局どうなったんだ?」
「高村殿は長男で跡継ぎなんだけど、その恋人さんは次男坊でね。高村殿の跡継ぎを心配して拒んでいたんだって。だから、言ってやったんだよ。家督の跡継ぎなんか養子をもらうでもなんでも何とかなるけど、本気で身を任せられる恋人なんて生涯に一人見つけられれば良い方なんだから、世間体とかしきたりなんてものよりも、お互いの気持ちを大事にしなさい、って。町人風情がいえるのはここまでだよ、ってね」
「ふむ。まぁ、妥当だな」
結局、話を聞いているうちに世間の噂話を聞くような気軽な体勢に変わった征士郎は、軽く腕を組んで頷いた。
起き上がって、征士郎の胡坐の膝の上に足を乗せ、志之助は改めて征士郎の顔を覗き込む。
「納得?」
すぐ近くに向き合って座った状態で、相変わらず澄んだ瞳で征士郎を見つめる志之助に、征士郎はふと恥ずかしそうに頬を染めた。
「悪い。早とちりだった。だが、しのさん。それを抜きにしても、近頃どこかおかしいぞ」
「おかしい?」
「おかしいだろう。頼まれた品物を間違えたり、つり銭を間違えたり。あまりにも心ここにあらずという風情だ。思わず浮気を疑おうというものだぞ」
「あ〜。それ、ただ単純に、風邪で少し熱っぽくて頭がぼうっとしてたせいなんだけど」
言われて、ふと思い出す。そういえば、ここ十日ほどご無沙汰なわけは、志之助の風邪のせいだった。歳のせいか、性欲に淡白になってきたことも理由にはあるが、少なくともここ数日は志之助の体調に考慮したせいだ。
考えてみれば、どれもこれもつじつまが合う。
なるほど、ミケが『気のせい』とからかったのも、道理だ。
「ね、ね、せいさん。そんなに気になったの? 高村殿と出かけたこと」
「……悪かったな」
「むしろ、嬉しいよ。せいさんが妬いてくれるなんて〜」
むすっと不機嫌になって開き直る征士郎に、志之助は実に嬉しそうに、まるで歌うようにはしゃいでそう答えた。それから、すぐ目の前にある征士郎の首に、自分の両手をかける。それは、色っぽいお誘いのポーズであり、うるんと艶めいた瞳は征士郎を甘えるように見据えた。
「ね。誤解の解決記念に。続き、しよ?」
ついばむような軽い口付けを、征士郎の薄い唇に落とす。軽く伏せられたまぶたが、そして、それがゆっくりと開いて、中に隠された目がじっと見つめるその視線が、征士郎に甘い誘惑を仕掛ける。
これを拒む理由は、征士郎には無い。どころか、志之助を疑ってしまったお詫びにも、お誘いに乗るべきだった。
再び、今度はゆっくりと、そこに延べられた布団に志之助の身体を横たえる。
「愛している」
耳元に囁く言葉は、結婚して以来八年間、事ある毎に囁いてきた愛の言葉。
くすぐったそうに肩をすくめ、志之助はにこりと笑った。
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