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とはいえ、いつまでも和んでいるわけにもいかないので。志之助の表情はすぐに引き締まる。
庭を埋め尽くす黒衣の僧侶たちが唱える大日如来の真言は、あたりの雰囲気をどんどんと清浄にしていく。寺院本来の威厳と風格が甦る。
真言の大合唱を行う僧侶たちと、本堂奥に鎮座する本尊である大日如来像の間に進み出て、志之助は手に持った数珠をジャラリと鳴らし、手を合わせた。
先ほど竜神の力を借りて結界を張ったときよりは、幾分穏やかな口調で、しかし、志之助はそれをはっきりと宣言する。
「我請大日如来、守護結界。閉」
途端、山を包む空気の密度が増した。それは、志之助をして、山門前で毎度躊躇させられる、あらゆる魔を拒み、受け入れたものを守る、あの守護結界だ。寸分違わない完全なる復元がなった。
それは、志之助でもその完璧さは少し意外だったのだろう。なぜか不思議そうな顔をみせ、それから、上空の蒼龍を見上げた。彼はそこに、蒼い身体を横たえてこちらを見守っているだけなのだが。
「蒼龍の仕業?」
『多少は。ですが、私は志之助の内包する力を引き出しただけに過ぎません。貴方自身の力ですよ』
それと、イタチの思わぬ助力に、計画していた以上の力が残されていたのも良かったのだろう。
そう、と頷いて、志之助は少し何かを考え込んだようだったが、それから、小さく肩をすくめた。ちらりと、真言を唱え続ける僧侶たちを見やり。
「三日三晩。いらなかったね」
『かまいませんでしょう。より、結界が安定します。それに、彼らの修行にもなりますよ』
「おや、蒼龍。何か、怒ってる?」
『貴方を長年苦しめた張本人たちかと思うと、多少八つ当たりしたい感が。もうしわけありません』
「ふふ。ありがと」
それは、いつも冷静沈着で、立場と礼儀を重んじる蒼龍に言われるからこそ、余計にうれしくて、志之助は照れくさそうに笑った。それは、実に満足そうな微笑だった。
「さてと、片付けて帰ろうか。蒼龍、結界返して」
『はい。では、私はこれで』
「うん。ありがと」
礼を言って、消えていく蒼龍の姿を見送ると、志之助はおもむろに、両手を開いて胸の前でパチンと合わせた。
「解」
志之助の声にしたがって、虹色だった空気が元の透明さを取り戻す。
後には、一心に真言を唱え続ける僧侶の一団が残るのみ。志之助は満足そうに微笑み、一団から一歩はなれて指揮を取る、昔の師匠の元へ歩み寄った。
「悌念様。術は成功しました。後はお任せします」
「帰るか? せっかくそなたが術を成したのだ。完了までおっても良かろうに。歓迎するぞ」
「ご冗談を。私は帰ります。ここまでできていれば、万が一でも失敗することはありません。私は不要でしょう?」
そもそも、志之助は、亡き師を参りにきただけなのだ。こんなところで足止めをくらっていること自体、予定外の展開である。そうでなくとも、この場所は志之助には悪い思い出しかない居心地の悪い場所だ。長居は遠慮したい。
そうか、と悌念が頷いたことで、志之助はそれを許されたと判断し、踵を返す。志之助を迎えて、蛟がそこに姿をみせた。蒼龍よりは寸が足らないが、それでも十分に長大な肢体を横たえ、くつろいでいる。
蛟に歩み寄っていく志之助を、背後から呼び止める声があった。それは、若い青年の声で。
「あの!」
「……あぁ、珍香さん。呪符は頼みましたよ」
「あ、ありがとうございましたっ!」
それは、志之助がこの山で生活をしていた頃を含めても、一番に心のこもった謝礼の言葉だった。少しびっくりして、それから、志之助は背を向けたまま、ひらひらと手を振った。
「いい坊主になんなよ」
「はいっ」
元気の良い応えが、志之助の心を優しく満たした。
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