壱の7
美人で有名な明神下に住む小間物屋の主人、中村屋志之助はその時、日本橋にいた。
その時とは、珍しく仕事が早くに済んだ征士郎の兄、勝太郎が中村屋に顔を出した時である。日も傾いて長屋に戻ってきた征士郎は、志之助にかわって店番をしていた。そこに尋ねてきたわけである。
そんな時に、志之助は一人、日本橋をうろついていた。
当然、ただうろうろしていたわけではない。これでも情報収集に赴いているのである。
お菊の奉公先、両替商の近江屋は、今日は店を閉めていた。まあ、先代の命日ということであったから、当然のことなのだろう。近所の評判もよく、なかなか羽振りも良さそうな大店である。
不自然なのは、こんな時間なのに近江屋には人一人いないことであろう。何もなければもう帰っていていいはずなのに、しんと静まり返っている。式神を中に放ってやっても、誰も見つけられなかった。つまり、音が聞こえてこないわけではなく、本当に誰もいないのだ。
間違いなく、何かがあったのは確かだった。何しろ、ただの奉公人であるお菊が追われる事態なのだ。お菊自身に何かがあったわけではなく、近江屋に何かがあってそのとばっちりを受けたと考えるほうが、より自然であろう。
しかし、墓参りにいった程度で、何があったというのか。
「といって、上野に行くのは嫌なんだよなあ」
他に事の次第を知る手がかりはなさそうなのは志之助もわかっている。それでも、嫌なものは嫌なのだ。
これ以上日本橋にいても仕方がないか、と肩をすくめた志之助は、神田の方へ足を向けかけて、立ち止まった。
何を見たとはっきり言えるわけではないのだが、何かが志之助の第六感を刺激したのだ。志之助の第六感は一般人のそれの少なくとも三倍は鋭くできている。それが反応したのだから、気のせいなわけはなかった。
なるべく不自然にならないように、志之助は第六感が示す先に目をやる。恐る恐るとならないのは、志之助がこういう行動になれているからだ。志之助にとっては、興味を引くものではあっても恐怖を誘うものではないのだから、当たり前かもしれない。
そこに見たものは、人影だった。生身の人間である。志之助には気づいていないらしく、その人間は一心にある場所を見つめている。
それは、やはりというべきか、近江屋だった。まるで監視しているような見つめ方である。今のこの状況で別件とは考えにくいので、ということはつまり、その男はお菊を追っていた男たちと何かしらつながりがある人間だということだろう。
まあ、志之助としては別に関係がなくてもかまわないのだ。楽しければそれでいいので。
志之助は、慎重なんて言葉は知らないというようにるんるん気分で、道を渡り、その男に近づいていった。
「ちょいとあんさん。顔貸してくれへん?」
いつもどちらかというと東国訛りで喋っている志之助だが、これでも生れも育ちも京の都。当然比叡山を出る前までは流暢な京弁をしゃべっていたわけである。
最近では滅多に出てこない訛りなのだが、今回はどうやら意図してこの訛りを使ったらしい。男は志之助のこの言葉に少し驚いたようで、目を見開いて立ちすくんでいる。
「うちに叩きのめされてみっともない姿公衆の面前にさらすんは、嫌やろ? せやから、顔貸せえ言うてんねや。もうちょいと奥へ行っておくれやす」
「な、何だてめえ。顔貸せだと、こらぁ。自分、何様だと思っとんじゃい!」
「奥行けえ言うてんのや! さっさと動かんか、われ!!」
通りの人間に見物されるわけにもいかないので、志之助は極力声を落として凄んでみせる。それがどうやら、相手にもいい影響を与えたらしい。
男はびくっと怯んで、言うことを聞いたつもりはないのだろうが、数歩後ろへ下がった。これを機会に、志之助も呼吸を合わせて男に近づいていき、ほどよい間合いを取りつつ裏通りのほうへ進んでいった。
いくら日本橋とはいえ、一歩裏へ入れば人通りはぴたっと途絶える。ちょうど、この付近に人は一人もいなかった。
志之助は、古武術も会得している。しかも、某道場で免許皆伝を受けた征士郎が太鼓判を押す腕前である。やくざくずれのこんな雑魚に時間をかける志之助ではない。決着はあっさりとついた。広い場所に出たとたんに志之助に投げ飛ばされて、おしまいである。
こんな、オカマとも見えるような細身の男に、こうもあっさりと倒されて、男はしっかり腰を抜かしていた。そのみっともなく座り込んでいる男の頭の前にしゃがんで、志之助はその顔を覗き込む。
「聞きたいことがあるねんけど。じぶん、さっき近江屋を監視しとったなあ? 何してそないなことしとったんや?」
そんなことを聞かれて簡単に答えるような奴はいないはずで、そんなことは志之助もよくわかっている。そして、そのためのフォローも万全だった。陰陽道を使って、自白の呪をかけたわけである。
何しろ志之助ときたら、陰陽師であり、真言密教僧であり、古武術使いであり、というようなメチャクチャな能力を兼ね備えた天台宗修業僧だったのである。何故僧侶として認められていなかったのかは、今だに謎のままだ。
「しゃべらへんと、命の保障はでけへんよ」
凄むでもなくあっさりとそう言ってのける。男は恐怖のあまり、とうとう股の間を濡らしてしまった。
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