12
翌日。
文也の部屋で黙々と問題集に取り組んでいた優は、台所から戻ってきた文也に、顔を上げた。電話をしに席をはずしていたのが、どうやら終わったらしい。
「誰から?」
「中野先生。引越しの話と、卒業旅行の話でちょっとね」
答えて、優と向かい合わせに座る。席を立つ前もそこにいたので、戻ってきたわけだ。ちゃんと、家庭教師の役目を務めているのである。前日に比べれば見違えるほど元気になっていて、これなら授業にも安心して出られるくらいなのだが、とりあえず大事をとっている。
「卒業旅行の話?」
「そう。実家のコネで、保養所、使わせてもらえないかな、と思って。今回は、うちの実家のごたごたで、みんなにも迷惑かけたしね」
保養所というと、と少し考えて、納得する。つまり、祖父が興した会社の所有する保養所のことだ。家族の利用であれば、規定上、可能なはずなのだが、一応確認を取る為、依頼したものであるらしい。本来、それは顧問弁護士の役目ではないが、中野自身が文也の代理人を買って出るくらいなので、頼んだわけだ。
「ってことは、温泉かどっか?」
「ううん。ハワイ」
「ハワイぃ?」
さすがに、そんなところに保養所を持っているとは初耳で、驚いて聞き返してしまう。返されて、文也はくすくすと笑い出した。その驚き方が、面白かったらしい。
「パスポート取ってもらわなくちゃいけないけどさ。旅費は僕が負担する。予算オーバーだから」
そう言って、今度は悪戯っぽく笑って見せた。そうして、おどけるように肩をすくめ。
「ハワイは、まだ行ったことがないんだよね。時季はずしてるから航空券も安く手に入るしさ。何もかもぱぁっと忘れて、楽しんで来よ?」
ね、と同意を求める文也を、唖然と見つめ、それから、優も笑い出してしまう。すっかり本調子の文也に、ほっとした。そして、その楽しそうな表情に、嬉しくなる。
「そりゃ、贅沢だな。でも、お前、大丈夫か? 予算」
「任せて。まだ言ってなかったっけ? こないだ買った株券が大当たりでね、今急上昇中なの。隙を見て、今のうちに売却しようと思って。その差額分で、十分まかなえちゃうんだ」
えへへ、などと笑うが、片手間でうまく儲ける文也の手腕に、優は苦笑を隠せない。もちろん、それを勧めたのは優なのだが。まさかここまでうまくやるとは思っていなかった。どうせ使わない収入なら、それを利用してみたら、くらいにしか思っていなかったのだから。思わぬ才能を見出したわけだ。
「だから、勉強頑張って、旅行までに進学先決めちゃってね」
「それは、内藤にこそ言うべきじゃないか? あいつが一番危ないだろ」
「そうなんだよねぇ。行けるのかな? この旅行、餌にして、はっぱかけてみようか?」
「あぁ、それ、いいかもな」
答えて、顔を見合わせ、笑いあう。
そこへ、再び、電話が鳴った。表示には、再び、『中野事務所』とある。
『あぁ、文也君? 聞いて驚いて。さっきの保養所の話、会長にしてみたら、文也君とその友人の卒業旅行なら、宿泊代と航空券代、負担してくれるって』
電話に答えた途端に、興奮気味の中野がそうねじ込んでくる。携帯を耳にしている文也と、離れていてもそれが聞こえた優が、お互いに顔を見合わせる。しばらく、何を言われたのか理解できず固まっていると、向こうから、聞いてる?と声がかかる。それが、思考を再開させた。優が叫びだしそうなのをぐっと堪えて、両腕でガッツポーズをし、文也は堪えきれずに笑い出した。
「ありがとうっ。御祖父様にも」
『うん。言っておく。気兼ねしないで楽しんでおいで』
その用件だけ伝えて電話が切れると、文也は電話を放り出し、感極まって優に抱きついた。優も興奮を抑えきれず、一緒になってぶんぶんとつないだ腕を振る。
「みんなにも知らせて来ようぜ」
「うんっ」
嬉しそうにはしゃいで、一緒になって部屋を飛び出していく。
もうそこに、昨日までの影はない。優がそばにいる。それだけなのに、文也には何事にも変えがたい力強さで、心を支えてくれている。だから、もう大丈夫だ。
充電器の上に座ったままの少女型ロボットだけが、誰もいない部屋で一人、小さく笑って主人の呼びかけを待っていた。まるで、元気になった主人の心の内がわかったように、嬉しそうに微笑んで。
おわり
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