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夕食後、文也の携帯電話が鳴った。優はまだ、文也と向かい合わせに座って問題を解いている。
液晶画面には、『中野事務所』とある。中野弁護士からの電話であった。
「はい」
『あぁ、もう元気そうだね』
受話ボタンを押して応答した途端に、電話の向こうの彼はそう切りだした。挨拶も何もない。
文也が声を出したので、ようやく電話に気づいた優が、顔をあげた。
「誰?」
「中野先生」
その答えで安心したらしく、優は自分の勉強に戻る。文也も電話のほうに意識を向ける。
『あ、斉藤君と一緒なの? 掛け直そうか?』
「いえ。大丈夫ですよ。勉強してただけですから」
答えながら、文也は立ち上がると、台所の方へ移動する。優の勉強の邪魔になるが、目の届かないところへは行けないので、このくらいが限界だ。
改めて用件を聞く。すると、中野からは苦笑が返ってきた。
『大した用はないんだ。文也君は元気になったかな、と思ってね。あ、それと、引越しの件。大家さんから、いつになるか聞いてくれって頼まれてね』
それは、卒業後の住まいの件だ。それを認識して、文也は自分が震えてしまったのを自覚した。
引越し先は、中野の友人が大家である不動産業者に勤めているという縁で紹介してもらったもので、中野が身元保証人も引き受けてくれた。だから、中野から連絡が来るのもおかしな話ではないし、連絡先にもなってもらっている。
引越し先に問題があるわけではない。もっと、個人的な問題だ。
『文也君?』
黙ってしまった文也に、中野から心配そうな声が掛けられる。だが、友人たち以外に、今かかっている心の病気を悟られるつもりはない。だから、無理矢理に気持ちを奮い立たせる。
「何でもありません。えぇと、引越し時期ですよね?」
『うん、そう。ちょっと考えておいて。明日また電話するから』
「はい。わかりました」
答えて、電話を切った。その携帯電話をくぅの充電器の隣において、勉強の邪魔になるのはわかっていながら、優の背中に抱きつく。
「文也? どうした?」
「ごめん。もう少し、このままでいて」
落ち着くまで。そんな風に言われて、優はシャーペンをそこに置いた。背中に張りついた文也を、自分の胸の中へ移動させ、抱きしめる。
「中野先生に、何か言われた?」
「ううん。違うの。引越し、いつにする?って言われて。そういえば、もうすぐだなぁって。優は学校に行っちゃうし、僕は就職活動しなくちゃ」
それで、今のように常にそばにいることが出来なくなることに、不安を覚えてしまったらしい。今までは、互いに信じあっている自信があったから、そんな不安を感じることもなかった。でも、今の精神状態には、苦痛だ。
それを聞いて、優はたまらず文也を抱きしめる。
「本当は、片時も離れたくない。それは、お前だって知ってるだろう?」
「うん」
「でも、本気で一緒にいたいなら、せめて専門くらいは出ないと、社会的にも釣り合いが取れないんだ。だから、今は辛抱しなきゃ」
「ん。わかってる」
それは、何しろ、文也が優を説得するのに使った言葉だ。痛いほど、良くわかっている。
「でも、ごめんね。不安なんだ」
「俺が浮気することは、万に一つもありえないぞ?」
「うん。信じてるけど」
信じきれないのも、また事実。そういうことだ。
それはでも、心がそこまで弱ってしまっているせいで。何に対しても疑心暗鬼になってしまっているせいで。
わかっているから、優は力いっぱい文也を抱きしめる。その腕から、逃がさないように。
「なぁ、文也」
抱きしめられて大人しくしている文也に、その頭ごと胸に押し付けたまま、そう話しかける。少し顔をあげる仕草をしたのに、力を緩めた。見上げてくれる文也を見つめ返す。
「他の奴らが、文也の傷に気づいたのは、確かに、文也がほとんどずっと俺を探してるからだろうけどさ。俺が気づいたのは、もっと前だったんだぞ」
「もっと前?」
どの時点から? 不思議な言葉を使うので、文也は実に不思議そうに恋人を見返してしまった。それに、優は苦笑で答える。
「俺を探すようになったのは、今朝起きてから。俺が気づいたのは、夜中一回起きた時。お前、柄にもなく俺に甘えるくせに、一度も俺の目を見なかったんだ。しかも、はっきり、抱いて、だろ? 文也が自分からそれ言ったの、初めてだからな。今までは俺が言って欲しいって言っても、恥ずかしがって、数えるくらいしか言ってくれてないのに。だから、やべぇ、って思った。心が壊れかけてて、自己防衛本能が働いたんだよ、きっと。よく言うだろ? 自分を見失ってるときほど、自己認識のために、強い刺激を求めるもんだ、って」
まるでカウンセラーのような観察眼に、文也は素直にびっくりして、優を見つめてしまう。自覚していないことだったから、なおさらだった。その視線を、まっすぐ受け止めて、さらに話は続く。
「俺は、そんな文也を見て、覚悟を決めた。文也が本調子に戻るまでは、自分のことは二の次だ。でないと、俺の大好きな、恥ずかしがりで意地っ張りで甘えん坊な文也は、二度と戻って来ないと思った。そりゃ、色っぽく誘ってくれる文也もイイけど。そんなの、文也らしくねぇよ」
真面目な顔で、優はまっすぐ文也を見つめている。いつになく、真剣に。それが、文也には息苦しいくらいだった。
「不安なんだろ? だったら、俺に甘えてよ。頑張らないで。自分が辛い時に、俺のことなんて心配しなくていいから。自分を大事にしてやって。文也が精神的に弱いことくらい、最初から知ってる。だから、文也がそうやって無理してるのを見ると、俺も辛いよ。ここは、無理するところじゃないだろ? 甘えるところじゃないか? 俺は、ここにいるから。文也を守るために、ここにいるんだから。もっと甘えてよ。文也の全部、預けてくれてもいいから。支えてあげられるから。な?」
優にはまるで似合わない、優しい声色で、文也一人に、囁くように、そう訴える。
ぽた。
水滴が落ちて、文也のチノパンの腿の部分に、染みを作る。俯いた文也の、涙だった。両手で顔を覆う。その文也を、優はそっと抱き寄せた。途端に、胸にしがみついてくるのに、揺らぎもせず、強く抱きしめてやる。やがて、すすり泣く声が聞こえてきた。
「……んで、そんな優しいんだよぉ」
「俺が優しいのは、文也にだけだよ」
涙声の訴えに、幸せそうに笑って、優は文也の耳元に決定的な一言を吹き込む。
それが、きっと限界だった。恋人の首に腕を回して抱きついて、声を上げて泣き出してしまう。涙と一緒に、心のわだかまりまで溶けて流れていくようだった。幼い子供をあやすように、背中をトントンと叩くリズムが心地良くて、泣き止むことが出来ない。喉のあたりが涙で苦しくて、でも、開放感に満ちていく。胸のつかえが取れていく。今までの苦しさが不思議なくらい、すんなりと。
「もっと泣かしてあげようか?」
「うん……」
それが意味するところはちゃんとわかって、でも、拒否できない。優が、その存在が、もっと欲しくて。体の奥の奥まで、心の奥の奥まで、感じたくて。文也が求めるくらい、それ以上に、欲しがってくれるから。それが嬉しくて。
びっくりしないように優しくゆっくりと服を脱がせてくれるその手に、何もされていないのに快感の糸が震わされてしまって、あんっ、と色っぽい声が出てしまう。時折触れてしまうその手が、気持ちよくて、声が出るのを我慢できない。恥ずかしいのに。優が嬉しそうに笑ってくれるから、ほっとして。
いつのまにベッドに移動したのかわからないまま、身体を慣らすのもそこそこに深く深く繋がって、文也はもう理性など吹っ飛んでしまっていて、優にしがみついて嬌声を上げる。周りを気にしている余裕もない。
悲しいのか嬉しいのかわからない涙が流れて行く。すべてを洗い流すように。
そしてそのまま、気を失うように眠りに落ちていくのだった。
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