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人の良い顧問弁護士に昼食を御馳走になって、といっても請求は祖父に行くらしいのだが、お腹も心も暖かくなって、数日ぶりに山梨県内の片田舎に帰る。文也の隣には優が常に寄り添っていて、太郎もすぐそばでくぅと戯れながら、文也を気遣ってくれていた。
寮に戻ると、他の三人の友人たちも、待ちかねていたように文也を取り囲んだ。
「おかえりぃ」
真っ先に小柄な文也に飛びついたのが、保である。優よりも先に文也の不在に気づいたわけだが、実際文也を心配すると同時に、もうお手上げ状態の課題に苦しんでいて、文也の帰りをてぐすね引いて待っていたのだ。喜びもひとしおである。
次に文也に近づいて、栗毛の髪を撫でまわしたのが、保のセフレを自称する親友、裕一だ。これまた、保に問題提起されて解けなかったそれが気になって仕方がなかったりする。
もう一人寄ってきた正史は、同行していた恋人、太郎に近づいていった。
「お帰り」
「ただいま。聞いてよ、旦那。この二人、とんでもないブルジョア。理事長宅もびっくりだったけど、この二人の実家は格が違うよ。東京の一等地に、あの倍の敷地だよ。もう、信じられない」
どうやら彼の意識には、そこが強く残ったらしい。聞いていて、文也は優と顔を見合わせると、苦笑を浮かべた。
いつものように寮の各棟各階に設けられた談話室へ移動すると、同じ階に住んでいる、一年下の後輩探偵団の面々にも取り囲まれてしまった。
文也は、これでいて、かなり人気があるのだ。外見は、背が低くて髪は茶髪で童顔で、こざるのイメージがぴったりの先輩だが、実力は誰の目から見ても尊敬に値するほどのもので、みんなから頼りにされている。しかも面倒見が良いからなおさらで、文也を嫌っている人間など、目に見える範囲では一人もいないのだ。
そんな先輩の行方不明事件である。皆、心配して待っていたのだ。文也はおそらく、自分がそれだけ人気者であることに気づいていないのだが。
「ほらほら。さとっちは今日はメチャメチャお疲れなんだから。散った、散った」
パンパン、と手を叩いて、まるで小学生を相手にするような言い方で、後輩たちを遠ざけるのは、ずっとそばにいた太郎だ。その疲れ具合は文也を見れば一目瞭然で、誰一人文句を言うこともなく、それぞれの部屋へ引き上げていく。
「はい、お茶。ジャスミンだから、リラックスできると思うの。これ飲んだら、部屋でゆっくり休んで。ホントに疲れた顔してる」
出て行った後輩たちと入れ替わりにやってきた保が、盆に乗せてきたティーカップにポットからあめ色の液体を移す。
湯気と共に香りを嗅いだら、ようやく、ほう、とため息がもれた。
「疲れた」
「寝てねぇもんな。三日まるまる」
は? そばにいたわけでもないのに、優にそう断言されて、驚いて聞き返してしまう。実際、文也には自覚がないから、なおさら驚いた。
「何で?」
「風呂も入らず、トイレも行かず、新陳代謝めちゃくちゃで、放心してた奴が、寝てるわけないだろ」
あ、そうか。言われて納得する。太郎ですら、失念していたらしい。東京から帰ってくる間も、居眠りすらしなかったのだから、もうとっくに限界も超えているのだろう。
「でも、お風呂入りたい」
「あ、じゃあ、温泉行く?」
ぼやいたら、間髪入れずに太郎が返してきた。自他共に認める温泉好きだ。それに、おそらくボディガードの意味もあるのだろう。本人はそんな様子をまったく感じさせないのだが、いつ倒れてもおかしくない状況である。非力な太郎では心もとないが、助けを呼ぶくらいのことはできる。
そうだね、と文也がうなづいたので、そういうことになった。
一眠りして、次に気が付いたのは、夜中の1時だった。
寝始めたのが夕方の5時だったから、ちょうど8時間。寝不足だったわりには、普通に目が覚めたなぁ、とのんきに思う。少し頭が痛い。
寝るときにはすぐそばにいてくれた優は、自室に戻ったらしい。部屋を見まわして、少し残念そうなため息をつく。
「くぅ」
『はぁい。ふーちゃん、おはよぉ』
呼んだ声に答えて、自ら充電器の上から立ちあがり、棚を滑り降りて、走ってくる。
「優は?」
『お部屋でお勉強、だよ。ふーちゃんが起きたら呼んで、って言われたの』
自力でベッドによじ上り、半身を起こした文也に抱きつく。優に、呼べ、と指示されたのに、部屋を出ていく気配がないのは、くぅに内線接続機能が組み込まれているためだ。
ぐりぐり、と頭を押しつけて甘えるくぅを胸に抱き上げる。その時、部屋の戸がノックされ、次いで鍵が開けられた。
「おぅ。起きたな、文也。気分はどうだ?」
聞きながら、文也に近づいてくると、ベッドに横座りする。
「んー。ちょっと頭が痛いかな」
「そりゃ、そうだろ。丸一昼夜寝こけてたら。寝すぎだ、お前」
「え? うそ」
おでこに手を当てられて、熱を測る仕草をしながらそうからかう優に、素直にびっくりして聞き返した。くっくっと優が笑う。
「まったく、隣でわかんねぇって叫んでるのに、さっぱり目ぇ覚まさねぇんだもんな」
加藤に教えてもらったけど、と笑って見せる。太郎も、たまに様子を見に来てくれていたらしい。そう聞くと、優がまた笑う。
「加藤だけじゃねぇぞ。みんな勢ぞろいでな。加藤と後藤に、勉強教えてもらって」
「って、この狭いところに5人?」
「そう。だから、こんなに大騒ぎしてんのに起きやしねぇ、って笑ってたんだ」
そんな状況を思いだしたらしく、優がくっくっと笑う。そうなの?とくぅに聞いてみたら、知らない、と返された。充電中だったのだろう。活発に動き回っているときのくぅの連続活動時間は、約3時間。常に動いていられるわけではないのだ。
「そうそう。伊藤が、物理で教えて欲しい所があるんだと。加藤や後藤の説明じゃ、わかんねぇ、って」
「そう。うん、明日見てみる」
答えて、優の首に手をかける。覆い被さるように文也を見つめていた優が、少しびっくりして目を見張る。
「どうした?」
「いや?」
甘える口調で、問いかける。それは、平常時で優がそんな雰囲気を作ってやるか、わざと焦らして見せたときにしか、見せてくれない甘え方だ。しかも最近では、翌日の授業に差し支えるからと言って、夜の11時以降はさせてくれないのに。もう夜中の2時に近い。
「俺は良いけど。らしくないぞ?」
「うん。わかってる」
その言い方が、文也独特の困った感じもなければ、恥ずかしがっている様子でもなく、それすら優を誘うように甘ったるい。
「一回したら寝ちまうと思うけど」
「それでも良い。抱いて」
それこそ、耳を疑った。文也が自分から、はっきり言葉に出して誘うのは、もしかしたら、つきあい始めて常に一緒にいて、初めてかもしれない。
こりゃあ、ちょっとヤバイぞ。文也の大胆なお誘いにしたがってキスをしながら、優は密かに覚悟を決める。今回の件で文也の中に残ってしまった、本人すらまだ気づいていない後遺症と、真っ向から戦うことを。
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