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 東京都世田谷区、とある地下鉄駅のすぐ近くにある雑居ビルに、それはある。

 中野法律会計事務所。夫は弁護士、妻は会計士の夫婦が営む、小さな法律事務所である。地元の中小企業にとっての、頼れる先生たちだ。

 そのうち、先生と呼ばれるのは、夫の中野義人の方である。会計士である妻は、先生、ではなく、奥さん、と呼ばれるのが常だ。本人もその呼び方が気に入っているらしい。

 中野はその日、近所の中流階級の家庭の、離婚調停に追われていた。弁護士とはいえ、この事務所のように地域密着型だったりすると、裁判所で被告人の弁護に辣腕を振るう、などという機会はめったに無い。統計を取ってみれば、依頼の多い順に、離婚調停、交通事故の示談、消費者金融とのトラブル、次いで法定弁護依頼だろう。そのくらいの仕事が、日常である。

 そんな程度の仕事では、収入も高が知れる。二人で生きていくには足りるが、余裕が欲しいところなのだ。

 それを補ってくれるのが、亡き父の代からの職務である、佐藤家顧問弁護士の仕事であった。現在の当主と亡き父が、どんなつながりがあったのか仲が良く、その縁で何かと仕事が舞い込んできていた。最近では、老い先短い当主の遺産相続問題と、直系の孫に当たる、二十歳になる青年の家庭の事情を気にするくらいの、楽な仕事だ。

 そう考えて、ふる、と彼は首を振った。

 その青年の立場は、他人である自分から見ても、きわめて微妙なのだ。当主の直系の孫で、次期当主と目される若様の長男であり、本来ならば帝王学を学び、跡継ぎとして育てられていて良いはずの立場であるにもかかわらず。

 わからずやの両親に嫌気がさして、アメリカへ留学と称する家出をしたのが、中学生の頃。現当主の亡き妻がアメリカ人なので、その親戚を頼ってのものだった。その後四年経って、強制的に日本へ戻され、二年遅れで山梨の全寮制高校へ逃げるように入学した。その時は中野も全面的に青年の味方をしていた。あまりにも気の毒だったのだ。扱われ方が。

 青年は、幼いころから、天才的な才能を持っていた。ただし、普通の学力とは違う。悪く言うとガラクタ遊び。学術的にはロボット工学の、いまや第一人者である。その事実を、両親は何故か知らない。そもそも、アメリカに逃げ出した後、彼がどうやって四年間を生きたのか、興味も無いのである。まるで、青年の立つ瀬が無い。

 だからこそ、中野は彼の逃避行を全面的にバックアップしているわけだが。

 高校の二年生くらいから、彼に恋人ができた。相手も男であるという事実は頭の痛いところだが、結構仲良くやっているらしい。性格的にも趣味でも似通ったところのある二人は、他の人間など近寄らせすらしないほどのラブラブ光線を放っていて、見ていて微笑ましいくらいなのだ。

 とにかく、恋人のおかげで、青年も一頃に比べて見違えるように明るくなった。電話やメールで定期的に連絡しあっているが、暗いイメージは今のところ見えない。

 その彼も、もう高校三年生だ。今一月末であるから、高校生活はあと二ヶ月。無事に卒業して、彼氏ともども帰ってきてくれるのを待つばかりの状況だった。二人とも、ここから目と鼻の先にある賃貸マンションに引っ越してきて、そこで同棲する予定になっている。中野の目の届くところにいる分、すぐに助けてやれるので、心配はしていなかった。

 人懐っこい笑顔を見せる彼の、幸せそうな顔を思い浮かべながら、まるでわが子を思うようにニヤニヤと笑っていると、そこへ電話がかかってきた。妻と事務員の女性は、二人揃って客先回りに出かけている。事務所には彼一人だ。

「はい?」

『斉藤といいます。先生は……?』

 それは、たった今思い浮かべていた青年の恋人、斉藤優の声だ。ちょくちょく遊びに来てくれる、見た目は不良っぽいがなかなかどうして素直な少年である。

「私だよ。どうしたんだい? 君から電話が来るとは珍しい」

『つかぬ事をお伺いしますが、文也、知りませんか?』

 は? 思わず聞き返してしまった。君が知らないなら私が知っているわけが無いよ、とでも言うべき相手から、そう聞かれたのだ。一瞬混乱してしまうとしても、それは仕方の無いことだっただろう。

 それから、すぐに気がつく。彼がここに電話をしてきて、用件がその恋人のことであるのなら、理由はただ一つ。

「いないのかい?」

『くぅも部屋に置いたままなんです。綺麗にしているあいつが、部屋の中ぐちゃぐちゃのままで出かけるとは思えないし』

 となれば、実家の関係者に強引に連れ去られた可能性が大だ。彼の電話の趣旨はそれなのだ。一語一句聞かなくとも、それは容易に察せられる。

「わかった。実家の方に当たってみよう。君はとにかく、落ち着いて、文也君の帰りを待ちなさい。受験勉強中だろう? 何かわかってもわからなくても、今日中にこちらから連絡する」

 はい、と答える彼の声が少し安堵の様子を見せたので、中野もほっとした。そして、大人としてできることはしてやらなければ、というような、義務感のようなものが湧き上がってくる。なんといっても、二人ともまだ高校生なのだ。立場上、行動に制限があるのは仕方の無いことだ。となれば、自由に動ける人間が手を貸すのには、何の不思議も無い。
 
「きっと近くに買い物に行っているだけだよ。バスの時間に遅れそうだとか、そういったことで慌てていたんだろう。気にすることは無いさ」

『そうだと良いです。すみません、お忙しいのに。よろしくお願いします』

 実に礼儀正しい挨拶ができる少年だ。もちろん、その歳にしては、という注釈がつくわけだが。大丈夫だ、ともう一度励まして、電話を切ると、彼は事務机から名刺収納ファイルを取り出し、頁をめくりだす。佐藤家の電話番号ならば暗記済みだが、この場合、自宅に電話を掛けても、空振りの確率が大、だ。となれば、もっと別の切り口から攻める必要がある。

 それは、佐藤家の執事とも言うべき仕事に携わる、佐藤家当主の老秘書の、公的な名刺であり、目的はそこに記述された携帯電話の番号であった。

 相手は三コールで電話に出た。忙しい時間だろうに、まるで電話がかかってくるのがわかっていたかのような早さだ。

「中野です。つかぬ事をお伺いしますが」

 言いながら、優に切り出されたのと全く同じ言い回しになってしまったことを笑う。その自分の声を、相手は途中で遮った。幾分切羽詰った口調で。

『あぁ、中野先生。お電話いただけて良かった。助けてください。このままじゃ、文也君が精神を病んでしまう』

 彼は別に、表立って文也の味方というわけではない。だが、そんな彼が、これだけ切羽詰った言い方をするのだ。人間として見ていられないレベルだということで。これで、中野は事態の大体を把握した。

 実家の命令には逆らわない文也である。それは、実家の人々を血の繋がった大事な相手であると認識しているからに他ならないわけだが、それは時として、文也自身の精神を壊す凶器となる。現に、高校に入学する直前、傍目にもギリギリな精神状態に追い込まれ、入学があと一週間も遅れていたら、高校入学どころか、精神病院へ入院する羽目に陥っていただろう。そのくらいには危険だった。

 そして今回。以前と同じくらい、いや、それ以上の精神的苦痛を甘んじて受け入れている。それがどんなに苦しいことか、中野は文也ではないので、具体的にはわからないのだが。

 彼が何故、それほどまでに自らを追い詰めるのか。それは、中野にもわかっていて、やめなさいと助言もしていることであった。つまり、すでにアメリカで大学を卒業し、博士号まで持っている息子の、その最終学歴を、家族は知らないのである。したがって、成金とはいえ日本有数の大企業を支える一族の子供が、日本で高校も卒業しない、大学も卒業しない、では、世間様に顔向けができない、という、一般的心理が働いているわけなのだ。それが、文也にはわかるので、抵抗しないのである。

 もう、いい加減、潮時なのかもしれない。それは、確信に近い推測であった。

「わかりました。すぐに伺います」

 自分が行ってどうなるものでもない。それはわかっていて、中野はそう答えた。そして、慌しく電話を切ると、先程電話をくれた少年に折り返し電話をかける。

 ワンコールで電話に出たということは、勉強も手につかずに待ちわびていた、ということだろう。

「あぁ、私だ。文也君は実家にいるよ。彼を助けるには、君の力が必要だ。幸い明日は土曜日だし、学校も休みだろう? 早朝に迎えに行く。待っていてくれ」

『でも……』

「大丈夫だ。今日明日で手遅れになるようなことでもないだろう? 文也君は君を全面的に信用している。裏を返すと、他に彼を助けられる人がいないんだ。だから、君はゆっくり休んで、英気を養っておいてくれ。わかるね?」

 おそらく、かなり不本意ではあるのだろう。だが、彼はあえて頷いてくれた。力ない、了承の返事が返ってくる。それは、その気持ちは良くわかるので、咎める気もなかった。頑張れ、と励まして、電話を切る。

 ちょうどそこへ、外回りに行っていた妻と唯一の従業員が帰ってきた。手早く事情を話して留守を頼むと、中野は大慌てで事務所を飛び出していった。





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