番外編 「文也」2 1
高校卒業を間近に控えたある日のことだった。
専門学校への進学に向けて猛勉強中の斉藤優は、このところ毎日自室で寝起きしていて、教室でしか恋人に会っていない。しかも、その恋人は受験対策の授業に飽きて休みがちだ。それでも、心は繋がっている実感があるから、不安には思っていなかったのだが、唐突に胸騒ぎがした。
恋人が、佐藤文也が、手の届かないところへ行ってしまうような。
勉強に疲れて、備え付けの学習机に突っ伏して寝ていたときなので、きっと悪い夢でも見たのだろう。が、気になるのは気になる。幸い、同じ寮の同じ階に住んでいて、ちょっと顔を見に行くくらいなら構わない距離だ。
優は、一度参考書を開いている机の上を眺め、それから軽いため息をついた。ぎし、と音を立てて、椅子から立ち上がる。
そういえば、今日は文也の姿を見ていないなぁ、などと思いながら。
文也の趣味は、少し変わっている。独立歩行型小型ロボットの開発。これが彼の趣味だ。とはいえ、高校の寮内では設備も全くといって良いほど無く、ソフトウェアのバージョンアップやら、通信技術の改良やらが主な作業だ。たまに鉄くずを集めてきて、ミニサイズの作業用ロボットを作ったりもしているようだが、それも単なる暇つぶしで。
そんなことをしながら、受験用授業になっている学校の授業を適当にサボっている人なのだ。だから、学校で会わないことも、最近はよくある。
室内は暖房が効いていても、廊下に出ると案外寒い。椅子に引っ掛けてある厚手のシャツを羽織って、優は部屋を出た。
部屋の外では、ちょうど文也の部屋の前に、友人が困った様子で立っていた。伊藤保という、まるで天使のような美貌と雰囲気を持つ、本性はかなり小悪魔的な少年だ。
「どうした?」
「あぁ、さいっちゃん。ねぇ。さとっち、留守?」
知り合った当初は、優の不良っぽい雰囲気から遠慮がちな話し方をした保も、今ではかなり砕けてしゃべる。それはそれで、肩肘張らずに済むので優としてはありがたい。
それはこの際、どうでもいいのだが。
「いないのか?」
おかしい。どこかに出かける予定も聞いていないし、室内に風呂もトイレもキッチンも揃っているこの寮で、外に出る必要があることは極めて稀だ。あるとすれば、外にある温泉の引かれた共同風呂くらいだが、こんなに明るいうちから入浴する趣味は、文也には無いはず。
「困ったなぁ。物理と数学、教えてもらおうと思ったのに」
「加藤に教われば良いだろ?」
「たろちゃんは、文系だもん。理数系はさとっちの方が教え方上手」
それは確かに。思わず頷く優である。ロボット工学博士の文也と現役小説家の太郎では、専門分野として当然の話だ。
「さいっちゃんは、何も聞いてないの?」
「あぁ。珍しいことにな。ふもとに買い物に出かけただけなら良いんだが」
胸騒ぎが再発する。何だか気になるのだ。
ふと黙り込むと、室内でカタカタと音がするのが聞こえてくる。音はするのに、優の声が聞こえても出て来ない。
やっぱり、気になる。
優は自室にとって返すと、靴箱の隅に置いてある文也の部屋の合鍵を取って戻った。
優がいない間に、バスタオルと着替えを抱えていかにも風呂上りな格好の、加藤太郎がやってきていた。保が文也の部屋の前に立ちすくんでいるのに不思議に思ったらしく、そこに足を止めている。
「どうしたの?」
「胸騒ぎがするんだ。ただ留守なだけなら良いが」
思い当たることがある。
胸騒ぎが、だんだん確信に変わっていくのを、止められないのだ。こうなったら、部屋を確かめるしかない。ただ出かけただけなのか、もう帰って来られないのか。
「帰って来られない? それ、どういうこと?」
「実家が、少々複雑でね」
簡潔に答えて、ガチャッと鍵を開け、扉を開く。
途端に、優の足に体当たりしてきたものがあった。ベタン、と音を立てて、優の右側の足にしがみついている。それは、全員が見覚えのある、文也の知の結晶だ。
「くぅ。どうした?」
『大変なのぉ。ふーちゃんがいなくなっちゃったのぉ』
半べそかきながら、いや、ロボットなので泣くわけが無いのだが、その少女型のロボットは、抱き上げてくれた優に訴える。ロボット、くぅを連れて、勝手知ったる他人の部屋とばかりにその部屋へ入っていった優は、キッチンを通り過ぎ、立ち止まる。後ろを追いかけてきた太郎と保が、その背後から部屋を覗いて、目を見開いた。
それはまるで、台風か竜巻が通り過ぎた後のような、目も当てられない悲惨な光景であった。
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