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 共同大浴場には、浴室と脱衣所と便所しかない。それでことが足りるからだ。
 その代わり、脱衣所は2クラス分の棚が用意されていて、浴室も広く作られている。反対に、そこに人が一人しか居ないと、音が反響して非常に気持ちが良い。開放感に満ちている。

 吹きっさらしの渡り廊下から脱衣所に続く扉を開くと、浴室からシャワーの音が聞こえてきた。
 脱衣籠を見渡して、一つしか使用されていないということは、太郎だろう。自分も少し離れた場所の脱衣籠を使って服を脱ぎ始めた。

 シャワーの音がやむ。

 そっと浴室の引き戸を開くと、頭を洗っている太郎がそこに居た。少しこちらを意識したらしい。顔の向きが入り口側に向けられる。

「旦那?」

「おう」

 なるべく平静を装って答えると、太郎からくすっという笑い声が聞こえた。
 笑った理由を話すつもりはないらしい。また、頭洗いを再開する。

 太郎が居るところから、一つ置いて隣のシャワーを使う。その行動に、太郎はちらりとこちらを見たが、何も言わずシャワーで頭の泡を洗い流し始めた。正史も、頭を洗い出す。

 しばらく無言が続いた。手早く身体も洗って先に浴槽に浸かりに行った太郎が、せっせと身体洗いに励む正史をぼんやりと見ている。
 別に、何が見えているわけでもないのだ。生来の近視と充満する湯気で、色の判別程度しかできていない。それも、きつい乱視のせいでぼやけてしまっている。
 正常な視力を持つ人には分からないかもしれないが、今の太郎には、正史の姿はただの肌色の丸にしか見えていない。

 対する正史は、心にやましいことがあるおかげで、気になって仕方がなかった。太郎がひどい近視で裸眼ではほとんど何も見えないのは知っているが、見つめられているその視線は感じるのだ。内面まで暴かれそうなその重い視線に、押しつぶされそうになる。

 とにかくその視線から逃げたくて、正史は身体を洗うのもそこそこに、太郎の居る浴槽に入った。
 いつもはその感触が気持ち良くて身も心もリラックスするその瞬間を、この時ばかりは楽しむ余裕もない。肩まで浸かって、太郎から身体一つ分離れた位置に縮こまる。
 太郎は反対に、かなりゆったりとそこにいた。

「何があったの?」

 最初から、正史に何かがあったことは察してくれている太郎が、そう問い掛ける。これで何度目だろう。何度も何度も聞いてくれているのに、正史から返答ができない。

「沈着冷静が売りの旦那があんな事するくらいだから、よっぽどのことなんだろうねぇ」

 ちゃぷん、と音を立てて、太郎が湯船の中に潜ってしまった。全身湯に浸かるとかなり気持ちが良いそうで、たまにやることなので、別に正史も慌てはしなかったのだが。太郎もすぐに浮き上がってくる。

「俺は、どうしたら良い? 聞いてあげたら良い? それとも、そばにいるだけで良い?」

 そう聞いてくれる太郎は、もしかしたらカウンセラーの才能があるのかもしれない。
 正史は常々思っていたことだが、太郎には何を言ってもただ聞いてくれるだけで、本当に回答を求められているとき以外に自分の意見をはさむことは稀なのだ。ただ聞いてくれるだけで良い、を肌で知っている。だから、安心して愚痴がこぼせる相手だった。

 それを、もしかしたら期待したのかもしれない。そう、正史は自己分析する。今の太郎のそばは、空気が優しい。それは、温泉を通じて良くなった仲だから、よりリラックスしやすい関係でもあった。相乗効果という奴だ。

「聞いてもらえたら嬉しい。でも、あまり人には話したくない」

「う〜ん。それは困ったね」

 そう、実際まったく困ったようには見えない口調で、そう返す。そうだな、と正史も頷いた。他人事のようだが、そういう反応ができるのも、実は太郎が持つ雰囲気のせいだ。

「じゃあ、俺の話、聞いてもらっても良い?」

 そう切り替えしてきたのは、もしかしたら仲良くなってから初めてのことかもしれない。問われれば答えるが、それ以外であまり自分のことは話そうとしない太郎だ。まじまじと見返してしまった。視力が劣る分、聴覚と第六感ともいえる感覚が鋭い太郎が、見つめられたのを感じてくすりと笑う。

「俺の頭の回転が速いのは、事実として認識してもらえてるよね?」

 おう、と頷く正史に打ち明けられた太郎の告白は、正史をショックで打ちのめすには十分なとんでもない話だった。




 太郎の出身地は、神奈川県横浜市。横浜市内の交通の便の良い住宅街に駐車場付き一戸建てを建てられるくらいには裕福な家庭の生まれだ。
 両親共に低学歴で、母親は中卒、父親は高卒が最終学歴。それでもこれだけ裕福なのは、父親の、大卒よりも社会に出るのが早かったのと、努力の賜物だろう。

 太郎には、一雄という名の兄が居る。今年大学3年生だから、4歳年上だ。
 東京の、有名大学と比べれば知名度は地を這うような、そんな大学に通っている。太郎がこんな場所まで逃げてきた、本当の理由がこの兄だった。

「俺はね、兄のおもちゃだった。俺が頭が良いのに、嫉妬したんだ。クラスメイトたちのイジメなんて、兄に比べればかわいいもんだよ。身体的にきつい事は、さすがに中学生はしないからね。俺に嫉妬するような奴って大抵良い学校狙ってるから、内申点が怖いもんね。その点、肉親はホント、容赦ない」

「おもちゃ?」

「うん。犯罪学的に言うと、性的玩具。要は、セックスのはけ口?」

 さらっと。本当に、何のためらいもなく、さらっと口にしたその言葉に、正史は言葉を失う。太郎の独白は、正史の反応を知ってか知らずか、さらに続く。

「さっき嫌がったのは、そのせい。旦那のことは、結構好きだから、してもいいとは思うんだけど。ただ、了解とってからにして。ああやって無理やりされると、兄とダブるから」

「嫌じゃ、ないのか?」

 普通、男が男に組み敷かれるのを、良しとすることはない。よほどのことがない限り、他者に服従することは死を意味する。それは、動物としての本能だから、変えようがないのだ。オスとして生まれる限り、付属する感情である。それを、あっさりと否定できるところが、正史には理解できない。

 その疑問を、太郎は軽く首を振るだけで答えた。

「倫理観、麻痺してるのかもしれない。いやだ、って思うよりは、気持ちいいところを探して逃げた方が、精神的に楽でしょう? そう、しちゃったと思うんだ。自分ではもう、わからないけど。旦那なら、いいよ。話してて相性合ってるし、俺、多少のことじゃ旦那から離れる気、ないし」

 言っていることはとんでもないひどい話で、普通の感情を持つ人間であれば憤りを覚えて当然なのだが、太郎があまりにも淡々としているせいか、正史はただ呆然と太郎を見つめていた。

 それから、はた、と気づく。

 自分の悩みなど、太郎に比べれば些細なことだ。

 それは、本当にそうだ。なにしろ、太郎は男としての性別の尊厳を踏みにじられている。そんなことに比べれば、どんな悩みを持っていたとしても、自分がちっぽけに見えることだろう。

「俺の話はおしまい」

 そう締めくくって、太郎はまた、ぽちゃん、と頭まで湯に浸かってしまう。

 今度はしばらく上がってこなかった。

「加藤?」

 返事は大きな空気の泡一つ。すぐあがってくると思っていた正史が、それを見て慌てた。体一つ分の隙間を駆け寄って、抱き起こす。

 と。

「ぷぅっ。っくっくっくっ」

 いきなり太郎が楽しそうに笑い出した。正史は、笑う太郎を抱いたまま、びっくりした目で彼を見つめる。それは、何故笑っているのかわからないのと同時に、太郎がいつもよりもハイテンションなことに対する驚きだった。自分の辛い過去を話すとき、そんな簡単に笑える人などあまり居ないだろうに。

「何だ?」

「あぁ、おかしい。旦那ってば、大慌てなんだもんっ」

 まだ笑いやまずにそう言って、太郎は両手を正史の背中に回した。肌が密着する。

「あんな話聞いても、抱きたいって思ってくれる?」

 それは、単なる問いかけではなく、暗に誘ってもいるもので、すべすべの若い肌が自分を覆っていて、目が回るかと思った。耳元に囁きかける甘えた声が、男の象徴を直接刺激する。それが、同じ男である太郎に分からないはずがない。むくむくと大きくなるそれが太郎の腹部に当たって、太郎はくすくすと嬉しそうに笑った。

「抱かれたい、と思うのか?」

「何故か、ね。不思議だね。兄さんのときは苦痛でしかないのに。貴方に求められてるって思うと、それだけで良い。もっと欲しがってほしい。おかしいな。夕方まではそんなこと微塵も感じなかったのに」

 そんなことを、笑ったままで言う太郎に、正史は途端に胸が熱くなって、ぎゅっと抱きしめた。なんだか、壊れかけているように感じた。今ここで手を離したら、本当にくず折れてしまいそうに見えた。そんなこと、自分が許さない。この腕に居る生き物を、守りたいと、心から願った。

「加藤」

 太郎が肩に顔をうずめているせいで、そこで囁くと耳元に届く。ん、と反応があって、正史は意を決した。

「俺の話も、聞いてくれるか? お前ほどではないんだ」

「今日荒れてた理由?」

 そう。頷いて、一つため息をつく。太郎が抱きついてくれているおかげで、心が落ち着いていた。今なら、感情的にならないで話せる気がする。何か、解決策が見つかりそうな、そんな予感がする。

 正史は、すでに全校生徒が知っているとおり、理事長の妾腹の息子である。父や義母、腹違いの弟にはまるで本当の家族のように扱ってもらっているが、学園組織全体を束ねる藤堂家は、それなりに資産も多く、親戚には、妾の子になど財産をやるものか、と言われているのが現状だった。
 後藤、という姓は、亡くなった母の姓なのである。それ故、正史は藤堂家の戸籍には入らず、最低限の生活ができるだけの援助をもらって日々を暮らしていた。そこは、認知した父親に養育の義務があるのだから、下手に断るわけにもいかないのだ。

 そのような事情がある正史だから、当然親戚一同が集まる法事などは、本当なら出席したくない胃の痛い行事なのだが、影でこそこそ言われるくらいなら、正史も耐えられる。あんなに荒れてしまう理由は、原因は同じところにある、もっと手酷い所作のせいだった。

「理事長には妹が3人居るんだが、彼女たちが、何かにつけて俺を物陰に引っ張り込むんだ。抵抗すると、とんでもないことになるのは目に見えていて、だからといって父には迷惑をかけたくない」

「物陰に? って、え? 嘘。女の人って、相手選ぶんじゃないの? 普通」

「中1のガキの頃からだから、かれこれもう5年になるな。そんなガキならまだ男じゃないってさ。男の身体って、感情だけではどうしようもなくて、さすがに淫乱なメス豚の子供だね、なんて悪口言われながら。本当に、絞り尽くす、っていう言葉が最適だ。で、身体が慣れてくると突き放すんだよ。昔はまだ良かったんだけど、最近は本当に地獄」

「持て余しちゃうんだ。それで、あんなこと」

 なるほどねぇ。そう太郎に納得されて、正史は言葉に詰まった。
 それが言い訳になるなどとは思っていない。だから、申し訳ない気持ちでいっぱいになるのだ。
 まして、太郎の過去を聞いてしまった今となっては。太郎がここに居てくれる事実に、神に感謝してしまう。自分の過ちを、太郎は許してくれたのだから。

「ごめんな」

「もう、謝らないで。仕方のないことだよ。俺も男だもの。わかるから。なまじ血がつながってたりすると、苦労するよね、お互いに」

 きっと、正史が太郎の過去と自分の過去を比べてしまったのを知って、そう言ってくれたのだ。そう思うと、正史は胸が熱くなった。自分など、太郎に比べれば些細なことなのに。同列に並べてくれたのだ。そこまで思ってくれる太郎を、正史は強く抱きしめた。

「ありがとう」

「ううん。俺の方こそ」

 抱きしめてくれる力強いその腕が嬉しくて、太郎は反対に抱きつく。実は着痩せするだけだった、大きくて頼りがいのある胸に体を預けて、そっと目を閉じる。
 視力が最悪なのを言い訳にして、スポーツをほとんどしてこなかったおかげで、太郎は身長に対して筋肉量と体重が足りないので、余計縋り付いていたくなるのかもしれない。

 お互いに、相手に欲情して、その印も隠しようもない状況で、それでも、抱き合っているだけで満ち足りてくるのは一体何故なのか。
 うっとりした目で正史を見上げた太郎に、正史はそっと唇を重ねた。





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