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side 一之


 もう何度もうちに来ているはずの弓弦は、俺の愛車もアパートも、何もかもが新鮮なようで、いちいち感動していた。

 実家は神奈川のど真ん中、厚木と平塚の市境あたりにあるのだが、車で通勤するとスムーズに来ても片道一時間半は軽くかかる距離で、しかも渋滞する箇所がいくらかあるので、学校の近くにアパートを借りて一人住まいをしている。

 田舎なおかげで家賃が安く、2LDKのアパートで駐車場込み月五万円。駅から遠いせいもあるけれど、なかなかに破格だ。おかげで、悠々とした一人暮らしを満喫している。

 そこに、先週から毎晩やってくるのが、この「加賀見弓弦」という名前を持つ少年。人格としては、今目の前にいる彼ではなくて、夜になると目を覚ます「ユウ」の方だ。

 だから、彼は何度もここに来ているにも関わらず、初めて来た感覚でいるのだ。ユウと違って、弓弦には眠っている間の記憶がまったくないからな。

 実は、あれから毎晩、俺はユウを抱いていた。行為を始める頃はまだ反応しないのだが、いざ事を始めると、ユウは男とは思えないほど色っぽくて。ちゃんと反応するんだよ、これが。

 身体から始まる恋って、本当にあるんだなぁ、って、俺はこの歳になって初めて実感していた。俺は、ユウに恋をしている。今更かよ、って突っ込みを入れたくなるくらい、今更なのだけれど。たぶん、愛していると言っても、嘘ではないと思う。

 だが、それをユウに打ち明けるつもりは、今のところ無かった。

 ユウと相思相愛になったところで、それは本当に、夜だけのほんの一握りの時間に限られる。それに、ユウは自分を「加賀見弓弦」の一部だと思い込み、そう主張しているのだから、弓弦を無視してユウだけを愛することを、ユウは良しとはしないだろう。

 俺は、ユウと恋人になりたいと望むなら、弓弦も一緒に好きになる必要があるんだ。

 たぶん、それは可能だとは思うけれど。ただ、弓弦のことを、俺はあまりにも知らなすぎた。学校での教師と生徒の立場でしか、話をしたことがなかったから、より彼を知る機会がなかったせいだ。

 弓弦を家に招待したのには、ユウを迎えに行く手間を省いたのももちろんそうなのだが、それはどちらかというと口実で、もっと彼を知りたいと思ったのが本当の理由だった。

 きっと、弓弦のことも俺は好きになると思う。昼休みにユウに聞いた話を語った時の弓弦の反応が、俺にそう確信させていた。

 さすが、ユウのもう一つの人格だ、と思う。優しさに満ちて、他人を思いやる心を持ち合わせていて、それでいて、冷たいくらいに冷静に物事を判断できる力を持ち合わせてもいて。人間として、魅力的だといえる。

 はじめは一人だったこの二人を引き裂いた神様に、感謝したら良いものか、怒りを抱くべきなのか、俺は判断しかねていた。彼らの人生に悲劇が無ければ、今頃は普通に優等生として小田原の高校で順風満帆の人生を歩んでいたはずで、となれば、俺とはまったく接点が無い。二人が二人だからこそ、俺は夜の街でユウと出会うことができたのだ。そう考えたら、俺個人的には、感謝すべきなのかもしれないくらい。でも、彼らを考えれば、素直に喜ぶことはできなくて。

 複雑だ。とても、複雑な心境だった。

 散らかすものも無いし、毎日来客があるおかげで部屋をきれいに保っていたから、そんな俺のゆったりした部屋を眺めて、弓弦はひとしきり感心した後、奥の四畳半に置かれた、寝乱れたままのベッドを見つけたらしい。部屋の入り口に立ち止まってしまっていた。

「どうした?」

「俺、ここで芝田っちに抱かれてるんだよね?」

「あぁ、まぁ、そうだな」

「何か、変な感じ」

 それはきっと、自分の知らない自分の姿を、見せ付けられたような感覚でも覚えたのだろう。こうして見る限りでは、その表情からは感情が図り取れないが、だいぶ複雑ではあるらしい。

「芝田っちさ、男を抱くことに抵抗無かったの?」

 尋ねられて、俺ははっと顔を上げた。

 そうか。男に抱かれて喜ぶ夜の自分を、彼は内心では理解できなくて、生理的な感覚で嫌悪していたんだ。そう、思い知らされた気分だった。

 さらに、その視線からは好奇心も感じ取れたけれど。

「最初は、無理だと思ったんだけどな。ユウは、色っぽいから」

 それは、間違いなく、多くの経験を経て得た、男を誘惑する力なのだろうし、それはこの弓弦には持ち合わせない能力だろう。性的な快楽を知っているといないとでは、比較にならない。

「ふぅん」

 興味が無いのか、興味が満たされたのか、気の無い返事を返して、弓弦はベッドから目を逸らした。

 リビングのソファに落ち着いた弓弦に、俺は自慢のコーヒーを振舞う。それは、ユウに渡したカップと同じマグで。一人暮らしだから、マグカップの絶対数が少ない、という理由もあるが、それよりも俺は結局、弓弦とユウを同一の相手として認識したいらしい。

 豆を挽くところからこだわる俺の自慢のコーヒーに口をつけて、弓弦の表情に笑みが浮かんだ。

 その自然な笑顔は、ユウとまったく同じだった。

「おいし」

「そりゃ良かった」

 そのやり取りは、五日前の夜にもした覚えがあったから、同じ相手なのに同じ会話を二度も繰り返すことで、改めて彼が二重人格であることを思い知らされた。二人の反応がほとんど同じだから、俺にとっては同じ行動を繰り返すことになってしまう。

 この子を愛するためには、そういう戸惑いにも慣れなくちゃいけないんだ。俺には二度目でも、弓弦には初体験なのだから。

 初めて入った大人の男の部屋がそんなに珍しいのか、もしくは目のやり場に困ったのか、弓弦は周りをきょろきょろと見回していたが、やがて、一冊の本に目を奪われた。

「あれ……」

 それは、前の土曜日に町立図書館で借りてきた、心理学の本だった。精神科の分野では権威と呼ばれる人であるらしい医学博士の書物で、完璧な医学書。それも、そのものずばり、解離性同一性障害の研究結果に基づく本であった。

 ユウと接するようになって、俺は、生半可な気持ちでは彼を救うことはできないだろう、と、大学時代にかじった児童心理学の教科書を読み返していた。それで、気づいたのだ。

 弓弦とユウは、他の事例とは違う。明らかに、副人格であるはずのユウの態度が、他の事例の副人格とはかけ離れて違っている。すくなくとも、この教科書に現れる事例とは、似ても似つかない。

 そもそも、副人格とはいえ、それは通常、一個の人格を形成する。主人格が心に深い傷を負って生み出される副人格には、主人格とはまったく異なる性格が与えられるのが常で、しかも、あまり理性的ではない。むしろ、攻撃性が増し、もしくは感情の起伏が激しくなり、本能そのもので行動する場合が多い。

 しかし、ユウは違う。どちらかと言わずとも、彼は主人格を愛しているし、主人格を守るために自らを犠牲にすることも厭わない。性欲を処理するために身体を投げ出してはいるが、天性の勘が働くのか、酷い仕打ちをされたことは今のところ無いのだという。それこそ、毎晩相手をとっかえひっかえしているのに。

 こんな副人格が、果たして存在するものなのか。そこが気になって、俺は医学書にまで手を出したわけだ。

 結論として、俺はユウに当てはまる事例を見つけることが出来なかった。もちろん、ここに現に事例があるわけなので、ありえない、と言い切るわけにはいかないが、稀有なパターンであることは確かだった。

 弓弦は、その本の表紙を見て、指差したまま、少し考え込んでしまっていた。それから、俺の顔を覗き込むように見つめた。

「あれ、俺もうちにある」

 それは、予備知識の無い高校生では実に難解な書物であったから、それを個人で蔵書していることに驚いたけれど。

「そうか。勉強してるんだな」

 自分の身に降りかかって、しかもそれをしっかり受け止めているからこそ、治そうと努力もしているのだろう。弓弦は、自分には認識できない自分を、自分に取り戻すために。ユウは、守るべき弓弦を傷つけずに自分が消滅するために。それぞれが努力しているのだ。

 それでも、状況は何も変化しない。だから、二人とも苦しんでいる。

 俺は、それに何がしてやれるだろう。若い身空で困難な障害を抱えたこの少年に。

「ねぇ、センセ」

「ん?」

 コーヒーが入ったカップを両手に持って、俺のこだわりが反映されたふかふかのソファに座って小さく縮こまり、弓弦はしばらく黙っていたが、ふと俺に声をかけてきた。それは、まるで呟くような声だったけれど。

「俺は、主人格だと思う? 副人格だと思う?」

 え?

 ユウが来るから、とクッキーなどを買い置きしていたから、それを出そうと棚を漁っていた俺は、そこで固まった。

 その問いは、俺の思い込みを根底から覆す、そして、彼の存在意義すらもひっくり返すような、そんな問いかけだった。

 つまり、昼間の人格である弓弦を、彼自身が、疑っているわけだったのだ。

 言われてみれば、確かにそれはわからない。何しろ、どちらも理性的で、どちらも優しく穏やかで、どちらが主人格であったとしても、俺には納得できてしまったから。

 ユウ自身は、自分が副人格だというようなことを言っていたが、それだって本当かどうかは怪しい。

 なにしろ、そう主張する根拠が無いのだから。身体を支配している時間が相手よりも短いから、たぶんそうだろう、というだけの話で。

 俺が黙ってしまったのに、何をどう判断したのか。弓弦は、そうだよね、と呟いたまま、また黙り込んでしまった。コーヒーのカップを両手で包んだまま、それを口に運ぼうともしない。もう気温はずいぶん夏に近づいていて、そんな熱いものを持っていても、身体を温める効果など必要ないはずなのに。

 弓弦の前にクッキーを載せた皿を置き、俺は彼の隣に腰を降ろした。ソファはそれ一つだから、おかしなことではない。

 そして、その小さく縮こまった肩を、そっと抱き寄せた。おとなしく、されるがままになっている彼が、愛しく感じるのは、それがユウと同じ精神と身体を持つせいなのか、それとも、彼自身に俺が惹かれ始めているのか。

「俺には、どちらが主人格なのかは、判断ができない。ユウと知り合って日も浅いし、弓弦とも個人的な付き合いは今までしたことがないからな。でも、これだけは言える。どちらが主人格だろうと、二人とも別々の人格だし、二人のうちのどちらかが消えることになっても、二人がここに存在していたことに変わりは無い。もちろん、このままで良いとは思わないぞ。でも、焦ってどちらかに決めなくちゃいけない問題でもないさ」

 そもそも、二人とも三年間そうやって悩みながらここまで生きてきたんだ。きっかけから三年経った今、突然すべての問題が解決するなど、無理がある。それは、どうしようもない。

 だから、焦る必要は無いんだ。今やるべきことは、二人が少しずつでも歩み寄ること。相手を良く知って、受け入れることが必要なんだよ。それが、他人だからこそ、俺にはわかる。

「言ったろう? 俺が橋渡しになってやる。だから、もっとユウに興味を持て。何を考えているのか、どうしたいのか、もっと分かり合う必要があるよ。もともと同じ人間なんだから、難しいことじゃないだろう?」

 彼らに足りないのは、きっと、意思の疎通だ。橋渡しに、なんて最初に思いついたのは、ユウへの恋慕の情が原因だったから、とても動機は邪だが。改めて考えれば、言い訳でもなんでもなく、彼らにはそれが必要なのだ。

 ならば、少なくとも二人の片方に惚れてしまった俺としては、二人を助ける手段に立候補するのもやぶさかではない。

「直接会話が出来たら良いのに」

「そうだな」

 ということは、弓弦も、ユウと対話をする必要性を感じ始めたらしい。それは良い事だ。

 ものすごい自分勝手なわがままを言わせてもらえるなら、彼の二重人格は治らないでほしいとおもう。治ってしまったら、二人のうちのどちらかには会えなくなる。しかも、本人が望んでいるとおり、ユウが消える可能性のほうが高い。

 好きな人には、消えないでそこにいてほしいと思う。それが、どんなに彼自身を苦しめることなのだとしても。

 だからせめて、二人ともに、心の負担が軽くなるように。俺に出来る精一杯の協力をしたい。

「さて。飯でも食いにいくか?」

「お金、ないよ?」

「さすがに、おごるぞ。高校生に、自分の分は出せ、なんて言ったら、社会人として情けないし」

 わーい、と両手を挙げて喜んだ弓弦に、俺は苦笑を浮かべる。

「あんまり高いものはダメだぞ」

「けち〜」

「教師は安月給なんだよ」

 財布と車の鍵を持って、弓弦を促しながら、自宅を出る。きっと、帰ってくるときは、俺の傍らにいるのはユウの方だろう。時間帯がそんなところだ。

 けれど、こうして自然にふざけて行動する癖でもついているらしい弓弦とふざけるのも、それはそれで楽しい自分に気づいた。どちらの彼も、実に好感の持てる少年で。

「あぁ、俺もこれで犯罪者か」

「え〜? 何で〜?」

 古い階段を先に下りていきながら、意外な地獄耳で俺のボヤキを聞き取った弓弦が聞き返してくる。本人は、自分が犯罪の被害者になっている自覚が無いらしい。その方がありがたいけどな。

「十八歳未満の子供にいかがわしいことすると、警察に捕まるんだよ」

「いかがわしいことするんだ〜。や〜らし〜」

 ん? お前、もうすでにユウか? まさかな、そんなわけはないか。まだ夕日が真っ赤に空を染めている時間だ。

「されてる方は自覚ないし」

「しょうがないじゃん、夜は別の顔なんだよ」

「お、意外と文学少年か?」

「意外は余計だよ〜」

 あははっと笑いながら、階段を下りた目の前が駐車場になっているそこを突っ切って、俺の車の前に立ち止まる。後ろから追いかけてゆっくり歩きながら、俺は遠くから、キーレスエントリーのボタンを押した。





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