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side 一之


 それは、五月の水曜日のことだった。

 小田原足柄地区の高校が持ち回っている、駅前パトロールの仕事が、その週は俺たちの学校の担当になっていた。俺の担当は、小田原駅前。同じ小田原担当の先生は全部で五人いて、駅前で挨拶をして散り散りに別れた。

 小田原駅前は、高校生にはかなり甘い誘惑が満ちた街だ。周辺が本当に何もないから、ゲームセンターやらカラオケボックスやらに用があれば、必ず小田原に出てくる。だから、小田原駅前の担当は、一番検挙率が高い。

 カラオケボックスはまだ良い。手を出すのはアルコールくらいだし、大手のカラオケボックスは、ちゃんと未成年者へのアルコール提供の禁止を徹底してくれている。

 問題は、ゲームセンターだ。高校生以下の学生の、十時以降の立ち入りは厳禁されているはずなんだが、十時を過ぎても、別に追い出されるわけではないし、そもそもそんなことをするようなまともな従業員を、ゲームセンターでは雇っていないのだ。

 他にも、駅前は飲み屋やパチンコ屋が多くて、遅くまで街頭が煌々と周辺を照らしているから、道端にたむろってアルコールや薬物に手を出す学生が多い。

 これらをすべて取り締まるんだから、高校の先生って奴は大変だ。

 その日も、俺はいつものように、小田原の町を高校生に声をかけながらパトロールしていた。パトロールの担当がうちの学校に回ってくると、俺は小田原の担当に有無を言わさず抜擢される。ここの担当は、追いかけっこにも対応できる、若くて体力のある先生にしかできないうえに、一番若い先生が俺なわけだ。俺の上は五歳も年上なんだから、先生の高年齢化が目に見えてわかる。

 今、学校の先生って就職難で、それは現在の先生の数が飽和状態だからなんだけれど、今いる先生のうち、結構な割合でいるのが団塊の世代といわれる世代で、もうすぐ定年だったりするわけで。あの年代の先生たちがどっさり定年になったら、学校の先生の数、足りるんだろうか。そんな風に、ちょっと心配になったりもする。

 まぁ、今はそんなことはどうでも良い。

 そういうわけで、小田原の駅前をパトロールしていた俺が、ふと目にしたもの。それは、うちの学校に在籍する二年生の男子生徒が、どう見ても父親くらいの年代のサラリーマンと、シティホテルに入っていくところだった。

 見知った顔だけに、俺はちょっと唖然としてしまって、そこに立ち尽くしていた。ふと、それって止めなくちゃいけないんじゃ?と気付いたときには、もうすでに彼らの姿は消えていて。

 あれは確か、二年生で一番成績の良い、加賀見弓弦だった。

 時間は、夜八時を少し回ったところ。押し入っていって彼を救い出すべきか、出てくるのを待つべきか、と悩んだ俺だったが、結局待つ方を選んだ。

 学校の先生には、そこまでの権限はないんだ。警察ではないんだから。

 シティホテルの周りをうろうろとして、二時間も経った頃。加賀見は一人でホテルから出てきた。入ったときに一緒だった男はまだ出てこないから、先に出てきたらしいが。

「加賀見」

 ホテルから少し離れたところで、俺は声をかけた。逃げるかと思ったが、彼はしかし、そこに立ち止まって俺を振り返った。

「何だ。芝田先生か」

 振り返った彼は俺を見て、そう答えた。だが、その答えに、俺は違和感を覚えた。

 なにしろ、俺は俺の学校の生徒に、「芝田先生」などと呼ばれたためしがない。それこそ、小石くらいおとなしい学生ではない限り、俺の呼び名は「芝田っち」なのだ。この加賀見にしても例外ではない。

 まぁ、それは、後から思い出して、おかしいところがわかったようなもので、その時はただの違和感に過ぎなかったんだけれど。

「こんな時間にどうした? 予備校の帰りか?」

 もちろん違うことはわかっている。が、俺たちのようなパトロールにとっては実に傍迷惑なことに、この通りには高校生相手の予備校もあって、夜中に高校生の出入りが激しいのだ。

 そんな俺の問いかけに、彼は軽く笑い飛ばしたのだけれど。

「やだな、芝田先生。俺がホテルから出てきたの、見てたくせに」

 つまり、気付いていたらしい。それならそれで、それなりの行動を示せば良いのに。逃げ出すとか。

「ホテルで何してた」

「売春?」

 今時の若者らしく、疑問形でそう答えた加賀見が、なんだかとっても不自然だった。すくなくとも、高校でよく見る、面倒見の良い大人な雰囲気の彼とは、あまりにも別人。纏う空気がそう感じさせるのか、なんだか淫蕩な表情に見える。

「今日の稼ぎは、二万円。あの親父、酷いんだよ。自分だけ気持ちよくなってさ。俺には全然イかせてくれないの。もう、欲求不満解消に来たのに、さらに溜まっちゃったよぉ」

 あははっと、実に楽しそうに笑って彼はそう言った。本当に、恥ずかしげもなく。

 それから、俺の腕に腕を絡め、上目遣いに背の高い俺を見上げた。その格好自体は、女生徒たちにも時々ふざけてされることだから、別にイヤではないけれど。

 ただ、その行動が、俺の官能を刺激したらしい。どくっと心臓が大きく動いた錯覚を覚えた。

「ね、センセ。俺と、しない?」

 ホテルでシャワーを浴びてきたせいなのか、彼の髪がしっとりと濡れていて、シャンプーの香りが漂う。

「ダメ?」

「……金なんか、持ってないぞ」

「良いよ、今日はもう稼いだし。それに、これは、口止め料。ね?」

 ね、ってお前なぁ、と叱ってやって、家に帰すのが、本来の俺の役目のはずなんだが。

 情けない話、前の彼女と別れてから一年以上、自慰だけで性欲をごまかしてきたから、結構溜まっていたのも事実なんだ。さらに、最近は中間試験の丸付けで夜は忙しくて。抜いてなかったんだよ。

 彼の、ぴっとりと身体を密着させた誘惑に、心はどうでも、体が反応してしまった。その服に隠された内側を目ざとく感じ取る彼は、どうやら男を誘うことに慣れているらしい。ふふっと嬉しそうに、笑った。

「ほら、センセの身体も、俺が欲しいって」

 気持ち良くしてあげるよ。そう、俺の耳元に囁いた。それで、俺はノックアウトしてしまったわけで。

「したら、おとなしく帰るか?」

「帰るよ。あんまり遅くなると、弓弦が寝不足になるからね」

 その意味深な答えに、そのときの俺はまったく気付かなかった。それが、彼が抱えた心の病気を、如実に表した答えであったことに。

 俺はその後、携帯電話で同じく小田原駅前でパトロール中の先生に連絡を取り、生徒を家に送り届けるから、と断ると、駅前を向こうに抜けて小田原城側の安い駐車場に停めた俺の車へ加賀見を連れて行き、そこで行為に及んでしまった。

 俺の車はワンボックスカーでね。別に、女を連れ込んで中でやるためとか、そんないかがわしい理由ではなく、ただ単純にデカイ車が好きなだけなんだけれど、それが、加賀見にとっては実にちょうど良かったらしく。

 加賀見の身体は、男であるにもかかわらず、俺をしっとりと包み込み、捕らえて離さず、その気持ち良さがはまりそうな快感だった。そして、彼の媚態がまた、男のものとは思えない淫らさで俺を煽るから、それはもう、効果倍増。

 思わず夢中で攻め立ててしまって、俺は、くったりと力が抜けた彼を、自宅まで送り届けてやった。




 翌日。

 俺の担当教科は日本史で、その日は、加賀見がいる二年一組でも社会科の授業があった。

 加賀見は、俺を見ても特に何の反応も示さず、いたって普通に授業を受けていた。その態度が、あまりにも気になってしまうくらいに。

 ちょうど四時限目だったこともあって、俺は授業のあと、加賀見を社会科準備室に呼び出した。昼休みは、他の社会科の先生は職員室で食事を摂るから、好都合なのだ。

 呼び出された加賀見は、別に渋ることもなく、社会科準備室へやってきた。

「なぁに? 芝田っち」

 それが、呼び出された彼が部屋に入ってきての、第一声。

 そこで、ようやく、前の晩の加賀見に感じた違和感の理由がわかったわけだ。俺の呼び名が違う、って。

「昨日の夜のことだけどな」

 もちろん、呼び出したのはそのことだった。身体は大丈夫か?いつもあんなことをしているのか?何か理由があるのか? 聞きたいことは、山ほどあった。

 だけど。そう話を切り出した途端。彼の態度が急変した。何かに怯えるようにびくっと身体を震わせて、目が俺からそらされる。昨日の行為中の態度とは程遠い。あれだけ割り切っていれば、今の切り出し方だけで、この反応はおかしいのだ。

「加賀見?」

「……昨日、俺に会ったんですか?」

「……は?」

 あまりにおかしな問いかけに、俺は思わず問い返してしまった。会った、どころの騒ぎではない。俺は、こいつの身体の奥深く、どこが快感を感じる場所なのかまで、詳しく知っているというのに。

「覚えて、ないのか?」

 その問い方は、つまり、そういうことなのだ。俺と会って、あんなことまでしたことを、目の前にいる彼は、まったく覚えていなかった。

 俺の問いかけに、彼は少し逡巡して、それから、こくりと頷いた。それから、昨夜出会ってしまったことで、隠しきれないと判断したらしく、彼はそのからくりを、説明してくれた。

 それはもう、普通なら信じられないような、だけれど、実際に目の当たりにしてしまっては信じざるを得ない、そんな話だった。

「先生。解離性同一性障害、って、知ってますか?」

「いわゆる、多重人格、だな?」

「俺、それなんです。昼間は何も問題ないんですけど。夜になると、意識がなくなって、いつの間にかベッドで寝てて朝になる。自覚してかれこれ三年くらいになるかな?」

 その事実は、俺を絶句させるのに十分な衝撃だった。彼は、その事実と向き合って三年も経っていて、もうすでに自分の中で納得できているのだろうけれど。

 それから、彼は少し俯いた。

「俺、先生に何かしたんですか?」

 どうやら、本当に、夜の自分を彼は知らないらしい。しかし、俺が呼び出したせいもあるのか、もう一人の彼が何かをしたらしいことは、感づいたのだろう。元々、この学校にいることが信じられないくらい、頭の良い生徒だから。

「加賀見。お前、夜のお前が何をしているのか、知っているのか?」

「……男漁り、でしょ? 時々、腰が痛かったり、身体に傷がついてたりするから。……もしかして、先生も?」

 は、とそれに気付いたのは、たぶん、だいぶ腰が辛いのだろう。昨夜は、本当に、自制が効かなかったから。

「ごめん。身体、辛いか?」

 素直に認めて、身体を気遣ってやれば、その言葉が示す意味を正確に理解した彼は、耳まで真っ赤になって俯いた。

 やはり、夜の彼とは人格がまったく違うらしい。夜の彼なら、平然と俺を見返し、誘惑の一つもしてみせるだろうに。

 昼間の彼と夜の彼のこんな些細なところにも現れる違いに、俺は罠にはまるように完全に、彼にはまってしまったらしい。気になるのだ。二人の彼の一挙手一動足の違いが。

「なぁ、加賀見」

「はい」

 声をかければ、彼は実に素直に、おとなしく返事をした。もしかしたら、昨夜の自分の行動を、誰か他の人にも言いふらすんじゃないかと、怯えているのかもしれない。だが、それが心の病だと聞いて、俺がそんなことをするはずはないんだけどな。

「その病気のこととか、学校生活で、何か困ったことがあったら、俺に相談しろよ?」

「……どうして?」

「お前が気になるから。昨日のことも、誰にも言わないし、今後も俺とお前の間の秘密にする。だから、安心して俺に相談して来い。理解者が誰かいたほうが、お前だって心強いだろ?」

 俺のそんな申し出は、彼にとっては予想外だったらしい。驚いた表情で俺を見つめ、それから、小さく頷いた。その彼の肩を、俺は勇気付けるように、ぽんぽんと叩く。

「辛いと思うけど。頑張れよ」

「……はい」

 心の病は、彼自身にしか治せない。周りにいる人間は、その手助けをしてやるところまでしかできないんだ。だから、こうして勇気付けるしか、俺にできることはない。もっと、力になってやりたいけれど。

 結局何もしてやれない自分が歯痒くて、俺は彼を強く抱きしめた。彼は、一瞬身体を硬直させたものの、それから、すがりつくように俺を抱きしめ返した。

 この時はまだ、加賀見は俺にとって、カワイイ生徒でしかなかったんだ。





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