彼と彼氏の事情 1




 そのとき、男はとりあえず付き合いという名を付けられるだけの関係をしていた女に別れを告げられ、目の前にある助手席に収まっている自分の付き人の背を、背もたれごと蹴飛ばしていた。

 スーツはアルマーニ、靴はフェラガモ。金持ちの男として最高のコーディネイトだが、これが嫌味なほど似合っているのは、がっしりした体格と男のフェロモンバッチリの二枚目フェイスのお陰だろう。少し恐がられる切れ長のきつい目が、ハデめな女たちには大人気だったりする。

 男の、その派手な肩書きと経歴にそぐわないほどに、恋愛に対しては誠実な対応をする性格を、熟知しているその付き人は、主人の八つ当たりのような行動を黙って受け止めていた。

 男が本気で怒っているときは、こんな程度ではすまないのだ。この程度の八つ当たりは、可愛いものである。

 あまり目立つ高級車は好まない男のもっぱらの足は、運転手つきのシーマである。パールホワイトの車体に、後部座席のみのスモーク。彼ほどの肩書きがあれば、ある程度以上の高級車で、黒塗りのフルスモークが一般的だ。だが、この車は、一応シーマの中では最高レベルの車でありながら、その品格を保ちつつ目立つことを極力避けた、男が気に入っている愛車だった。

 その後部座席に、男はふんぞり返って、助手席の背もたれを足でぐいぐいと押していた。つまりは、やはり、八つ当たりだ。

 車は、本郷通を皇居方面へ向かって進んでいた。左手には東大の広大な敷地が広がっている。

 と。

 車が急ブレーキをかけた。車はタイヤもブレーキも何の不平も漏らさずに止まったが、車内で搭乗者たちが前のめりになる。男は助手席に足を突っ張っていたことで衝撃を堪えたが、助手席にいた付き人は、後ろから足で突かれている上にシートベルトに締められて、苦しそうにうめき声を上げた。

 運転手が、窓ガラスをあけ、顔を外に突き出した。

「バカやろうっ! 何考えてやがるっ」

 それは、どうやら車通りの多いこの道の、ちょうどこの車の目の前に飛び出してきた青年を、避けるための急停車であったらしい。車道にへたり込んだ青年に、運転手は凄みを利かせた抗議の声を上げる。

 状況を把握して、男は車道の青年をしばらく観察していたが、それから、そのままにしていた足を下ろした。

「お前ら、ここでちょっと待ってろ」

 どうやら、青年に興味を持ったらしい。立場に似合わず、一般人思考の彼である。その行動は持って生まれた親切心から来るものであることは、嫌というほど思い知らされていたので、付き人も彼を見送るだけで助手席から離れない。

 ハザードランプをつけた愛車から降りた男は、躊躇することなく、青年に近づいていった。

「おい。大丈夫か?」

 声をかけながらすぐそばにしゃがんだ。そして、眉間にしわを寄せる。

 青年のその様子は、大抵の惨状にはすでに慣れていた男の目から見ても、悲惨そのものであった。

 彼の体格にしては少し大きめのシャツは、前のボタンがほとんど飛んでしまっていて、背中は泥だらけ。ズボンも尻の部分が泥にまみれ、後ろの縫い目が破れている。アスファルトにぺったりと座り込んでいるせいで観察できる前の合わせは、どうやらチャックがバカになっているらしく、ボタンだけを留められて中身をぎりぎり隠せている状態だ。しかも、股の間が不自然に濡れている。膝も擦り切れて、中に見える素肌は擦り傷が血を流していた。彼の身体からは、青臭い独特の臭いが漂ってくる。

 誰がどう見ても、これは強姦だ。青年が女でない分、始末に終えない。

 道を走っていく車のライトに照らされる彼の顔は、涙で濡れていて、しかし呆然と前を見詰めていた。長めの髪が額や耳元を隠していて、分厚い眼鏡が顔の上半分を覆っているが、それでも顔の造作が良いことがわかる。しかも、その眼鏡。近くからよく見ると、度が入っていないらしい。

 が、男は青年の顔をじっくりと眺めることはなかった。

「立てるか? そのままじゃ、家に帰れないだろ。おいで」

 青年は、やっと男の声が聞こえたように、ゆっくりと男の方に視線をやった。その青年に、手を差し出す。そっと置かれたその華奢な手を取って、青年を引きずり上げると、男は彼の歩行を手伝って、後部座席に押し込んだ。自分は反対側に回って隣に乗り込み、運転手に命じる。

「一番近いホテルに入ってくれ」

「へい」

 短く答えて、シーマは再び走り出す。

 ホテル、と聞いて、青年はやっと警戒心を取り戻したらしい。びくっと身体を硬くして、隣の男を見つめる。その視線は恐怖におびえていた。いつもであれば、そんな視線を浴びることも快感としていた男だが、これは意味合いが違う。

 男は、そんな青年に、にやりと笑みを見せた。

「安心しな。そんな状態の奴に手を出すほど、飢えちゃいねぇよ。心落ち着けて、帰んな。そばにいてやるから」

 そんなセリフが、付き人にはどうやら、甘いくどき文句に聞こえたらしい。主人を振り返って咎めるような表情を見せ、それからため息をついた。

 男の表情が、まるで慈しむように優しくて、口を出す機会を失ってしまったからだった。





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