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ガチャン。
答えは、カウンターの向こうの音で返った。そのとんでもない音は、どうやらポットを流しに取り落としてしまった音らしい。割れたようではないが、驚いて春賀も中村もそちらを振り返ってしまう。
やがて、ほぼ同時に、再び向き直った二人は、真剣な表情で顔を見合わせた。
しばらく黙っていて、春賀が呟くように言う。
「俺、男ですよ?」
「存じ上げています。それに、貴方がこの清水の組の血筋であることも、失礼ながら、調べさせていただきました」
そこまで承知していて、それでもなお、こうして押しかけてきて頭を下げる中村に、春賀はかえって訳が分からず、首を傾げてしまう。
そんな春賀に、中村はようやく話を始めた。
それは、常々二人の行動に付きまとっている中村だからこそ言える、そんな言葉であった。
「若が、橘さんに好意を寄せていることは、ご存知ですか?」
「……本人はひた隠しにしてるつもりみたいですけどね」
「その理由も?」
「出会いがアレだったから、気が引けてるんでしょ?」
「そこまでご存知であれば話は早い。実は、私どもの組長に、そろそろ嫁を、とせっつかれています。今のままだと、若には不本意な嫁取りを強行される恐れがあります。ですから、その前に、若が本気で惚れ込んだ人に、姐として入っていただきたい」
「それで、俺?」
「橘さんなら、私たちは喜んでお仕えいたしますこと、お約束いたします」
いかがですか。そう、中村は気が急いたように身を乗り出した。
そこで、中村が「たち」と複数形を使ったことに、春賀は単純に驚いた。つまり、そう考えている人が、中村一人ではないということだ。それは、驚くべきことだろう。春賀自身、住吉組の人間には中村と勝元以外会ったことがないのだから。
「それは、俺の気持ちは、二の次?」
「まったく脈がないと分かっていれば、私たちは若を説得する方を選びます。多分、若に折れていただくほうが、何かと手っ取り早いことも事実でしょう。ですが、橘さん。若を憎からず思っていらっしゃいますでしょう?」
だったら、どうせ両想いなのだから、どちらの思いも叶えてしまうべきだ、との選択肢を、中村は取ったのだ。なかなか、勇気のいる判断だと、春賀も思う。
「若には、橘さんにその想いを告げるつもりは、まったくありません。一生胸のうちにしまっておくおつもりであること、この中村、この耳でしかと聞きました。ですから、橘さんに直にお願いに参ったわけです」
いかがでしょう。そう、中村は締めくくると同時に、回答を迫った。それは、多分中村の癖なのだろうが、有無を言わせぬ口調で。
とはいえ、春賀もまた、生まれも育ちも純粋なカタギとは違う。中村の迫力と剣幕に、春賀は困ったように首の後ろに手をやった。
「少し、考えさせてもらってもいいですか? せめて、東京に帰るまで」
「それは、色よいお返事を期待しても良い、ということでしょうか?」
「……考える余地はある、って程度で」
白とも黒とも言えず、灰色と言うにも難しい、実に微妙な答えだった。だが、中村はその答えにとりあえずは納得したのだろう。分かりました、と再び頭を下げた。
しばらく、香りの良いブレンドコーヒーを楽しんで、春賀はふと呟くように話しかけた。
「一つだけ、聞いてもいいですか?」
「はい」
「どうして、俺が孝虎に好意があるって、分かったんですか?」
それだけが、春賀には引っかかっている。完璧に隠していたつもりだった。孝虎は鋭いたちだし、常にそばに控えている中村も、決して鈍感ではない。だから、細心の注意を払って隠していた。それが、あっさりバレているとは。
が、中村はその問いに、クックッと笑った。
「橘さん、今年の初詣までは、若を同性の友達以上に見ていらっしゃいませんでしたでしょう?」
「えっ!? そんな詳しくバレてるの?」
「あからさまに、態度が変わりましたから。何だ、自覚なかったんですね」
意味ありげにそんな言い方をして、中村は一人で笑い出してしまう。実に楽しそうにひとしきり笑って、困惑したままの春賀に、中村はようやく答えを返した。
初詣以降の春賀は、孝虎の意見に素直に従いすぎる、と。
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