6
「和樹……」
母が、呆然と息子の名を呼ぶ。
父は、ばつの悪そうな顔で口をつぐんだ。
智紀は、その両親に背を向け、和樹を見上げる。和樹に対して、迎え入れるように大きく手を広げた。
「おいで、和樹」
自分が泣いているのに、気づいていないのだろう。不安そうに、目が兄に問いかけている。それに対して、智紀は大きく頷いた。
「良いんだ。ここへおいで」
もう一度、呼ばれて、恐る恐る近寄ってきた。そうして、智紀の目の前にぺたんとしゃがみこむ。
抱き寄せられて、頭を預けた。涙をぬぐってもらって、やっと泣いていたことがわかり、びっくりする。
「ほらほら、そんなに泣かないの。怒られてたわけじゃないから、心配するな。ちゃんと飯食ったか?」
それにしては早い時間なので、まだなのはわかるが、そう問いかける。問いかけてやるのも、リハビリのうちだ。自分で考えて答えを導く、そんな癖がつく。
ふるふる、と首を振るのに、智紀は笑った。一緒に、ぐぅ、と和樹の腹が鳴る。
「あぁあ。腹減ったって言ってるぞ、和樹の腹。何だよ、迎えに来てくれたのか?」
こくん。そう、頷いた。
ちゃんと、二人の間に会話が成立している。
しゃべっているのは一方だけなのに、意思の疎通ができている。
それは、和樹と今まで生活してきて自分たちにはできなかったからこそ、驚いてしまうことで。
「よし。じゃあ、飯にしよう。和樹が腹減りすぎて死んじまったら大変だ」
冗談っぽくそう言って、ぽんぽん、と和樹の肩を叩く。
そうして、智紀は両親に一度視線を投げかけ、和樹を促してそこから立ち上がった。
和樹は、智紀から離れまいとしてぎゅっと抱きつく。
「何だ、どうした? 和樹は甘えんぼさんか?」
ふるふる。
うつむいたまま、智紀からも離れずに、ただ首を振る。
表情も見えないので、智紀もさすがにその意味がわからないかと思った両親だったが、智紀は優しい笑みを絶やすことなく、和樹のふわふわの髪をなでた。
「大丈夫だよ。兄ちゃんはどこにも行かないから。そんなにくっつくと、飯食いに行けないぞ」
言われて、渋々離れる。
そうして、寂しそうに見上げるのに、反対に智紀の方から肩を引き寄せてやった。
「そうだな。離れたくないよな」
こくん。
そうやって頷く和樹に、両親は顔を見合わせた。
母親が、耐え切れずに口を挟む。
「和樹。そんな、血の繋がった弟にいたずらしようとするお兄ちゃんを、本当に信用できるの?」
呼ばれて、問われて、何を言われたのかわからなかったのだろう。
首を傾げた。
それから、助けを求めるように兄を見上げる。
それは、どうやら通訳を依頼されたらしい。
そう受け取って、智紀はさすがに悩んだ。何と噛み砕いたらよいのやら、だ。
「和樹とエッチしたがってる兄ちゃんで良いのか?ってさ」
それも、訳し方としてはどうかと思うが、他に言葉が思いつかない。
それは、実は智紀も心配にはなっていることなので、答えを待ってしまう。
家族三人に囲まれて、和樹は困って首をかしげた。
それから、智紀に抱きつき、頭を押し付ける。
ぎゅうっと引っ張られたのでかがんでやると、その唇にキスをされた。
「え?」
それは、智紀としても思ってもいなかった答えだ。
拒否しないことは、先ほど確かめたとおりだが、まさか和樹から行動するとは思っていなかったのだ。
「かずきっ」
あまりの驚きように、母の声がひっくり返る。
ぎゅっと兄の首に抱きつく和樹を、智紀は驚いて呆然と抱いていたが、それから、だんだんと感動が湧き上がって来る。
「本当にっ?」
こくん。
あまりに感動してしまって、声を抑えるのを忘れた智紀に、和樹は抱きついたまま頷く。
兄が何故そんなに興奮しているのかわからない様子で、和樹はぼんやりと周りの様子を眺めている。
抱きついた兄からは離れる気がないらしい。
「和樹。お前……」
とうとう、父もその先の言葉が出なくなってしまった。
両親は大変なショックに茫然自失となり、智紀は感動のあまり和樹を抱きしめて固まっている。
しばらくはされるままになっていた和樹だが、それから、とんとん、と兄の背を叩いた。
少し力を緩めてもらって、自分のお腹を抱える仕草をしてみせる。
「あぁ、悪い。腹減ってたんだよな」
仕草を見て、答えて、反芻して、驚いた。
自分にすがり付いている弟を、まじまじと見返した。
何故そんなに驚くのかわからない和樹が、あんまり食事を焦らすのにぷっとふくれる。
今、和樹は、言葉という媒介はないものの、自分の思いを身体で表現したのである。
ふくれるくらいなら、それは感情を表す仕草で、まだ「まんま」も言えない赤ん坊でさえすることなので、驚くほどのものではない。
が、その前にして見せた仕草は、自分は腹が減ったのだ、という意思表示だった。
こうすれば相手に伝わる、というだけの判断力が戻っている証拠だ。
言葉を紡ぐまでには至らなくとも、相手にどうやったら伝わるのかを考えることができたのだ。
これは、驚くに値する、大きな前進だ。
お腹すいたよぉ、と訴えるようにばたばたとその場で足踏みをする和樹に、大きな感動からはっと我に返った智紀は、それから苦笑をして見せた。
「ごめんごめん。お待たせ。飯にしよう」
先に行きな、と促して背を押してやると、和樹は不安そうに目を潤ませて、ふるふると首を振り、それから智紀に抱きついた。
あくまで、離れる気はないらしい。
引き離されそうな不安を与えてしまった直後だ。それも仕方のない話である。
首にかじりついたまま離れようとしない和樹に困って、智紀は和樹を抱き上げる。それから、そのまま部屋を出た。
すぐあとを、両親が追いかけてくる。
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