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法要が済むと、宴席が設けられる。
智紀は親戚たちをもてなす側に立ち、ビール瓶を片手に席から席へと渡り歩いた。
親戚には、実家の内部事情など知られるわけにはいかない。
となれば、本家の長男としての責務を果たすのは当然の役目だ。
そうして数時間過ごすうちに、客は一人減り二人減り、いつの間にか近しい間柄の人に絞られていった。
そうなると、後は父親に任せておけば良く、こういった場には慣れていない智紀は足手まといだ。
台所作業を終えて女たちも宴席にやってきた頃、反対に智紀はさり気なく立ち上がり、家の奥へ入っていく。
階段を上がると、そこには両親の寝室と自分の昔の部屋、それに弟の部屋がある。
階段から一番遠い部屋の戸を、智紀は叩いた。
「和樹? 俺。入るよ」
声をかけて、戸を開いた。
その部屋は、四年前この家を追い出されたときと、全く変わっていなかった。
何もない、さっぱりした部屋だ。机と本棚とベッドが一つ。
四年前ランドセルが掛かっていた机には、代わりに学生カバンが一つ掛けられている。
弟は、ベッドに腰を下ろし、ぼんやりと宙を見つめていた。
人がやってきたのに気づいたらしい。少しだけ、顔がこちら側に向けられる。
が、入室者を確認するまでには至っていない。
その状況は、先ほど昔のクラスメイトから聞いた話を、はっきりと裏付けるものだった。
今では少しだけ専門的な知識を見につけた立場だ。
智紀は慎重に弟に近づいた。
「和樹?」
声を掛けながら、自分から彼の視界に入り込む。
彼の正面に膝を着き、ベッドについた手に触れた。
触れた途端、弟、和樹はびくっと身体を震わせた。
触れられた手を奪い取って、自分の胸に抱きしめる。
それから、その相手に視線をやり、相手を確認したかどうかのうちに、ベッドの上に飛び上がった。
慌てて端のほうへ逃げ出し、うずくまってこちらを見つめる。
その目は、本気で、恐怖に震えていた。
「和樹。そんなに恐がらないで。何もしないから。お話をしよう。ね?」
今の一連の行動で、わかったことがいくつかある。
一つは、智紀本人を恐がっているわけではないこと。
部屋に現れても目の前に姿が見えても拒絶反応を示さなかったのがその証拠だ。
そしてもう一つは、身体に触れられることを嫌がっていること。
手の甲に触れた途端に逃げ出して震えているのだから、そういうことだ。
今のこの姿を、ただ突然見せられただけなら、智紀もそこまでの観察はできなかった。
だが、今なら、前提になる知識を得ている。
この弟は、精神を病んでいる。
具体的には教えてもらえなかったが、二回転校して、今は高校受験も出来ずに引きこもっているらしい。
ということは、原因は学校の何かだろう。
いじめにあったのか、他の要因か、それは本人もしくは家族に聞くしかない。
親を通す前に、直接弟に会いに来たのは、それも理由があった。
もし、自分が弟に嫌われていないのであれば、実家に戻って来たい。弟を、助けてあげたい。
そう思ったからだ。
先に、両親に話をするのであれば、おそらくは猛反対を受ける。
だが、弟が自分を頼ってくれるなら話は別だ。
ならば、多少順序は間違っていても、弟に受け入れてもらうことが先だった。
「和樹。兄ちゃんが嫌いか?」
あ。
口が、そんな形を作る。
が、そのまま、戸惑ったように口を閉じてしまった。
もう一度、口を開きかけ、困ったように眉を寄せる。
そして、そのまま、何かを訴える目で和樹は兄を見つめた。
その反応は、智紀をほっとさせるのに十分だったらしい。
そんな仕草で、言葉が使えなくなっていることと、自分の意思を伝えたい気持ちはあることが、読み取れる。
優しい目で微笑んで見せて、軽く首を振り、和樹をじっと見つめた。
「無理しなくて良い。
自分の意思を伝える方法は、何も声を出すことだけじゃないよ。
首を振って。
そうだ、と思ったら頷く。
違う、と思ったら首を振る。
わからなかったら首を傾げる。
それなら、できるだろ?」
子供を安心させる声色は、三年かけて実践で習得してきた。
和樹には手を伸ばしても触れられないだけの距離を保って、問いかける。
言葉を理解するのに、少し手間取っているらしい。
困ったように眉を寄せたまま、しばらく固まっていたが、やがて、小さく頷いた。
その頷きに、大げさなくらいに嬉しそうに笑い返し、大きく頷く。
その小さな頷きを、ちゃんと受け取ったよ、という意思表示だ。
それから、こっちへおいで、と手招きをする。
自分で近寄ってきてくれれば、それだけ心を許してくれた証拠だ。
来られないならそれでも良い。こちらからは、動くつもりもなかった。
こうしたときには、動いてはいけないのだ。
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