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玄関先から、両親が帰ってきた音が聞こえた。
いつもなら、両親が帰ってきたときには迎えに出る和樹だが、この時だけは、動こうとしなかった。
「ねぇ、兄ちゃん」
「ん?」
改めて話しかけてくる和樹に、軽く問い返し、智紀は自分の肩に乗った和樹の頭を見下ろした。和樹が、少し身じろぎをする。
「ぼくね。ずっと、お父さんとお母さんが恐かったんだ」
「恐い?」
あんなに甘やかすほど和樹を愛している両親が、か?
そんな和樹の気持ちが信じられず、智紀は問い返す。それに、和樹はゆっくりと頷いた。
「だって、兄ちゃんのこと、好きになっちゃったから。お父さんもお母さんも、男の人を好きになる男の子って、嫌いでしょ? だから、ぼくも嫌われちゃうって思った」
それは、どうやら、言葉が話せなくなるほどにショックを受けた一連の出来事の、和樹本人が語る真相だった。
兄が、弟を男の子であるにもかかわらず愛するようになったことで、家を追い出されてしまったのだと解釈した和樹である。
それは、兄に会いたいと訴えるたびに、あんな男は忘れろ、と叱られたせいもあったのだという。
「ぼく、不良の人と、エッチなことしちゃったでしょ?
だから、お父さんもお母さんも、ぼくのことも家から追い出すんじゃないかって、ずっと恐かった。
恐かったし、嫌だったし、痛かったし、気持ち悪かったんだけど、でも、気持ち良かったんだ。
だから、男の人とエッチして気持ち良くなっちゃう子なんて、お父さんもお母さんも、嫌いになっちゃうから」
それは、ここまで懸命に息子を守ってきた両親に聞かせたら、ショックで寝込んでしまうのではないかと思うほど、ショックな話だった。
変態思考の男たちの毒牙から息子を守ろうとして、反対に息子までも傷つけていたのだから、正気でいられる告白ではない。
「でもね、お父さんとお母さんは、無理やりされたことなんだから、和樹のせいじゃない、って慰めてくれたの。
そのときは、すごく、ほっとした。だから、次の学校に転校したら、大人しく目立たない子になって、そんな風にされないようにしよう、って頑張ったのに」
今度は、頑張ったことが仇になった。それは、寺の息子から教えてもらった話だ。
和樹は、話をしながら、自分の手をぎゅっと握り締めていた。
話がしたいのだ。心が負けそうになっても、どうしてもこの兄に聞いて欲しいのだ。だから、逃げ出しそうな自分を、手を握り締めることで押し留めている。
智紀にその手を上から握られて、はっと兄を見つめ、それから泣きそうな顔で笑った。智紀の暖かい手が、和樹に勇気を与えてくれる。
「その次の学校でもそうだった。もう、どこに行っても、ぼくは逃げられないんだ。
挙句の果てに、ぼくに悪戯しようとした子の親に、ぼくが誘ったんだ、って言われて。
違う、って言えなかった。だって、そうかもしれないじゃない。ぼくがいなかったら、その子たちだってこんなことをすることはなかったんだから。
だから、ぼくは、いちゃいけない子なんだって思った。死んじゃいたい。誰もいないところに逃げたい。これ以上お父さんとお母さんを苦しめたくない。そう思ってたら、目の前が真っ暗になって……」
緊急入院する羽目になった。自分では生命維持活動すら出来なくなって、医療機器の助けがいるようになった。
その先は、智紀もいろいろな人から聞いて知っている通りだ。
心がようやく落ち着いてきた頃には、とりあえず何とか生きていけるまでに回復し、それでも考えることは拒否するので、癇癪を起こすようになった。言葉が話せなくなり、一人でいられなくなり。
そんなところに、実はすべての元凶だった、兄が帰ってきた。
「最初、この部屋で兄ちゃんを見たとき、ホントは恐かったんだ。こんなぼくは、兄ちゃんだって嫌いなんじゃないかって。でも、兄ちゃんが言ってくれたでしょ?」
「そんなことは、俺がお前を嫌う理由にはならないんだよ、って?」
「そう」
自分が和樹に言った言葉なら、ほとんど覚えている。
治療のために言ったセリフでもあるし、何より、和樹に言い聞かせる自分の言葉が、自分の心の支えにもなっていたのだ。その中の一つを言い当ててやると、和樹は深く頷いた。
「うれしかった。今までのことのすべてを、許してもらえたような気がした。兄ちゃんと一緒なら、すべてのことがうまく収まるんじゃないかって、そんな風に思えて。
今度こそ、兄ちゃんと引き離されないように頑張ろう。兄ちゃんに嫌われないように、頑張っておしゃべりできるようになろう。そう、ずっと言い聞かせてた」
その手伝いをするために、兄は自分につきっきりになってくれたのだ。期待に応える為にも、負けていられなかった。
「昨日、兄ちゃんがはじめてぼくに兄ちゃんの気持ちを打ち明けてくれたとき、すごく嬉しかった。
ぼくでも、兄ちゃんの助けになることが出来るんだって、そう教えてくれたんだよ。兄ちゃんのこと抱きしめたら、なんか、心の中がすごくあったかくなった」
そう言って、和樹は嬉しそうに微笑み、智紀の腰に抱きついた。和樹に貸していたシャツを、袖を通しただけで前ボタンを留めずに着ていたので、和樹の腕が裸の腹に絡みつく。
「ぼく、兄ちゃんのこと好きだから、お父さんとお母さんに追い出されちゃうかな?」
それは、言葉だけを聞けば不安そうなのに、和樹の表情は何故か楽しそうだった。まるで、それを望んでいるかのようでもある。
智紀と引き離されるくらいなら、このまま追い出してくれた方が、和樹としても嬉しいのだ。それがあっての、セリフなのだろう。
だが、智紀は、これも何故か、自信を持って否定した。ゆっくりと首を振る。
「大丈夫だ。あの人たちは、俺だから追い出したのであって、和樹のことを嫌いになることなんて、万が一にもありえないから」
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