21
山間部から抜けて、五日市の街に入ると、ようやく携帯電話の電波表示がフルになる。
信号待ちを見計らって、電話をかけた。和樹はカーステレオから聞こえる曲に聞き入っている。
「あ、俺。ごめん、寝てた?」
実際の話、智紀がこれだけ砕けて話をする相手は、ただ一人だけだ。
それだけを聞くとまるで恋人のようだが、彼らの関係はもちろん、ただの親友である。
世界でただ一人愛する相手もいる立場で、他人のモノに手を出すほど、智紀は物好きではない。
とはいえ、それがなくても、この親友に横恋慕するなど、命知らずも良いところだが。
電話の向こうは、言わずと知れたゲイバーのママ、はるかである。
「何だ。昼の仕事中か。あんまり無理して身体壊すなよ」
『ふん、だ。良いのよ、ちゃんと将来の展望があってやってることなんだから。それより、何?』
心配して優しい声をかける智紀に、受話器の向こうのはるかは、ふふん、と笑い飛ばす。
智紀が電話の向こうにいる見知らぬ人と楽しそうに話をしているのに気付いたらしい。
和樹はふと顔をあげ、電話をしながら車の運転をする兄の横顔を見やった。
そして、形の良い眉を不機嫌そうに歪めた。口元でも、下唇を少し突きだして、不機嫌さをアピールする。
「ちょっと教えて欲しいんだけどさ。オーナーと行ったって教えてくれた青梅のラーメン屋。どこだっけ?」
電話の用件はそこだったらしい。急なカーブを片手で難なくクリアし、車は軽快に走っていく。
「あぁ、あの辺か。わかった。サンキュー」
そんな電話を傍らで見ていて、不機嫌さは多少緩んだものの、和樹は実に複雑な表情をしていた。
携帯電話を胸ポケットにしまって、和樹に見つめられているのに気付き、苦笑を浮かべる。
「どうした?」
優しい兄の声でそう問いかけられて、和樹はまだ膝の上に持っていた上着を抱きしめる。自分の感情を持て余しているようでもある。
「だれ?」
和樹が言葉を使えるようになって七個目の言葉は、嫉妬してしまう気持ちが言わせた言葉だった。
咎めるようなその口調に、笑ってしまう智紀である。
「友達だよ。これから行くラーメン屋を教えてくれた人。何? 嫉妬してくれたの?」
からかうように答えて返されて、和樹がそっぽを向く。
ふて腐れてしまっているように見えるのは、きっとポーズなのだ。
反対に言えば、そんなポーズを見せられるほど、病状は快方に向かっている。智紀としては、嬉しさがこみ上げてくる反応だった。
はるかはともかく、その恋人である店のオーナーは、立場上、実に舌が肥えている。
その人が薦める店は、その客の入りの悪さとは反対照的に、実に美味なものだった。
味の素や濃い出汁の味に舌を慣らされている現代人には、少し物足りないのかもしれないが、智紀の好みには良く合う。
それは和樹も同じだったらしい。拗ねていた態度が、一口食べただけで幸せに変わった。
顔一面に幸せそうな笑みを浮かべ、二人は揃ってラーメン屋を出る。
車に乗り込み、再び山方面へ向かって出発。今度は奥多摩湖方面へ向かった。
湖面を渡る夕暮れの風が、優しく二人を出迎える。
展望台になっている駐車スペースに車を止め、二人は揃って外へ出た。
梅雨前のこの時期、湖水はいくらか水位を下げている。だが、水不足の深刻な真夏ほどではない。
湖のほとりに赤茶けた地面が見えて、少し景観は損なわれているのだが、西日を受けてほのかに光って見える新緑の美しさは、それを補って余りあるものだ。
隣に止めた車から降りてきた若い男女は、どうやらカップルであるらしい。
男が女の腰に手を回し、寄り添って湖面を眺めている。
そんな様子が、和樹には羨ましかったのだろう。
隣のカップルをじっと見詰め、それから兄を見上げる。同じようにして欲しくて、自ら擦り寄っていく。
智紀に肩を抱き寄せられて、嬉しそうに微笑んだ。
それにしても、今日の和樹は、智紀の友達に嫉妬して見せたり、他の恋人たちを見て羨ましがったりと、まるで智紀の恋人であるかのような反応をする。
そんな風に考える、智紀である。
どうやら、和樹が智紀を恋人として好いていることを、完全に忘れているようだ。それとも、まだ恋のいろはもわからない子供だから、勘違いしているのだ、とでも思っているのだろうか。
和樹に言わせれば、人の気も知らないで、ということになるのだが。
しばらくそうしていて、さすがに山の湖を渡る風は冷たくて、和樹が寒そうな仕草をする。
自分の身体を抱きしめて、暖かい智紀にくっつく。
「戻ろうか」
「うん」
先に立って車の方へ戻っていく、自分を気遣ってくれる兄に、和樹は嬉しそうに笑う。
その表情は、もう子供の無邪気さではなく、まるで慈しむような愛情に満ちていた。
まるで奥多摩を一周するように、周遊道路が整備されている。その道を、智紀のフランス車は軽快に走り抜けていく。
カーステレオから流れてくる落ち着いた曲を飽きることなく聴いていて、和樹はその曲のほとんどを覚えたらしい。
運転している智紀の隣で、楽しそうに歌っていた。和樹の歌声に、智紀の気持ちも嬉しくなる。
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