17
折り紙が楽しかったのか、西野少年とのコミュニケーションが楽しかったのか。
実に上機嫌で、名残惜しそうに病院を後にした和樹の手には、折り紙の作品が抱えられていた。
羽がパタパタ動く鶴や、指で押すと跳ね上がる蛙など、遊べる折り紙もいろいろ作っていて、帰りの車の中でも、手の上でいじって楽しんでいた。
どうやら、和樹はかなり手先が器用にできているらしい。きれいな正方形ではない折り紙をうまく誤魔化して、先っぽまできちんと折り目正しく折られている。
折り方の難しいものでも、何のその、らしい。西野少年が手伝ってもらって感激していたから、よっぽどである。
折り紙や紙細工は智紀も好きな方なので、今後しばらくはそれをしようかな、と考えた。
西野少年を叱る時にも言っていたが、指先を使う作業は、脳の活性化を促す有効な手段である。折り方の本を見ることで、自然と文字も読むようになり、言語野が適度に刺激される。
和樹がそれを気に入ったのなら、熱が冷めないうちに叩いておくのが良い。
「和樹。本屋、寄って良いか?」
聞かれて、和樹は首を傾げて返す。そうして、こっくり、と頷いた。
帰りに寄り道して買ってもらった折り紙の本と色紙の束を、嬉しそうに抱えて家に戻ったのは、夜の八時を回っていた。
何しろ、実家の近くに高速道路が通っていない。八王子まで出るしかないのだ。八王子市内を抜けるのに、渋滞にはまってしまっていた。
途中で、夕飯には間に合わない旨を電話で伝えていたのだが、家に帰り着いた途端に、両親が飛び出してきた。
「あんた。こんな遅くまで和樹を連れまわして。何考えてるのっ」
玄関を開けたのと同時に、向こうからも玄関が開けられて、母親の叫び声が飛び出してくる。
せっかくうきうきした気分で玄関を開けたのに、全てを凍りつかせるようなその声に、和樹はぎゅっと胸のものを抱えてうずくまった。
飛び出してくる母親に蹴り飛ばされかける。
「和樹っ」
和樹が母親と正面衝突しかけて、智紀は慌てて駆け寄る。
その行動に、やっと気づいた母親が、自分の足元にうずくまる和樹を見つけて、二、三歩後ずさった。
和樹のもとまで走り寄って、抱き寄せる。
「和樹。大丈夫だよ。恐くない。な?」
耳元に、勇気付けるようにそう囁いてやる。
うずくまってふるふると震えていた和樹が、兄の声に気づいてしがみついた。幼い子をあやすように背を叩かれて、ようやく震えが治まっていく。
「落ち着いたか?」
落ち着いた兄の声に安心したのだろう。こくりと頷く。だが、まだしがみついたままだ。
「母さん。和樹が一緒にいるところで、そういう大声出さないで。和樹がびっくりするだろ」
「母さん。和樹を連れて中に行っていなさい」
座り込んでいる和樹を抱きしめたまま、母を見上げて咎める智紀に、父が口を挟む。
父の表情も、まるで鬼の形相だ。
和樹が心配だったのはわかるが、これでも和樹の兄であり、恋、などという言葉が使える程度には和樹を大事に思っている人間を相手にしていて、取るべき態度ではなかろうに。
母に促されて、和樹は智紀と引き離されると思ったのだろう。嫌々をするように首を振って、智紀によりいっそうしがみつく。
バサバサッと音がして、和樹が抱えていた本と折り紙が地面に落ちた。
「どうした? 兄ちゃんはどこにも行かないぞ? 和樹と一緒にいるって約束しただろう?」
智紀の声かけに、そんな理由じゃない、と言わんばかりに激しく首を振る。
柔らかな髪が智紀の頬を打った。家族全員で使っているシャンプーの匂いがあたりに漂う。
「じゃあ、父さんと母さんが怒ってるのが嫌なのか?」
そう。大きく頷く。
そうして、両親を上目遣いに睨みつけた。両手は智紀の服を握ったままだ。
地面に落ちた折り紙が風に吹かれて転がっていく。
しばらく和樹が落ち着くのを待って、智紀は和樹の手を自分の服からはがしてやる。
そして、足元に散らばった折り紙と本を拾うと、和樹に差し出した。
「祖母ちゃんに見せておいで。僕が作ったものだよって」
渡されたものを反射的に受け取って、しかし、和樹はまた、嫌々をするように首を振った。
目に涙を浮かべて、兄をじっと見上げる。その悲しそうな表情に、智紀は胸を衝かれる思いがした。思わずもらい泣きしそうになって、グッとこらえる。
「和樹が怒られてるわけじゃないんだよ?」
ふるふるふる。
先ほどから、和樹は首を振りっぱなしだ。
嫌がっているのか、否定しているのか、わからない。ただ、首を振っている。
そうして、そのたびに、兄を悲しそうな目で見つめ、両親を恐い顔でにらみつけるのだ。
もしかして、と気がついた。
「俺が怒られてるのが、嫌なのか?」
そう。やっと当ててもらって、和樹は大きく頷いた。智紀が途端に困った顔をしたのに、和樹まで困った顔をする。
和樹には、智紀が何故両親にそんなに目の敵にされているのか、まだ理解できていないのだ。
智紀が山梨家を追い出されたとき、和樹はまだ小学生である。兄弟で仲良くして何がいけないのか、まだわかっていない歳だ。
突然兄がいなくなったのも、その本当の理由を和樹は知らない。和樹と智紀が仲が良すぎるのが原因だとはわかったのだろうが。
大好きな兄が帰ってきたのが嬉しくて、もう二度といなくなったりしないように、和樹なりに頑張っているのだろう。首を振って抵抗するのが、良い証拠だ。
「ほら、和樹。お父さんとお兄ちゃんは大事な話があるのよ。お母さんと先にお家に入りましょう?」
優しそうな猫撫で声を発しつつ、母は地面に座ってしまっている和樹の腕を引く。
と、途端に和樹がその手を強く振った。
「いやぁっ」
ほぼ一年半ぶりに自分から発した言葉は、拒否だった。
自分の声の出し方も忘れてしまっていたのだろう。まるで悲鳴のような叫び声だ。
だが、智紀にはその声に感動している時間は無かった。
和樹の苛立ちはとっくにピークを超えていて、癇癪を起こして、その手に持っていた分厚い本を母に叩きつけようとしていたのだ。
すんでの所で押し止め、和樹を叱りつける。
「和樹っ。人に物を投げちゃ駄目だって教えただろっ」
叱られた理由が、和樹には理解できているらしい。
びくっと震えて、目許を怒らせる兄を見つめ返す。
それから、兄の手から本を取り返すと、それを抱きしめて泣き出した。
智紀が抱き寄せるのに、身体を預ける。
智紀が和樹を叱ったのは、これで二度目だ。この一年半、両親でさえ叱ることができなかったというのにも関わらず。
「智紀っ。和樹に怒るなんて、なんてことをするんだ。和樹が可哀想じゃないか。病気なんだぞ」
「だから、何ですか。そうやって甘やかすから、和樹のリハビリが進まないんですよ」
その反論は、智紀の知識と経験に基づく断言である。
和樹は、もうまともに物を考えることが出来ているのだ。
西野少年にも出来なかった折り紙を、本を見ながら完成させたのだから、絵を見て理解して実践できるだけの思考力がある。
それは、育てていくことで和樹の心のリハビリに大変な効果を発揮するはずだ。
今、甘やかすわけにはいかない。
「和樹だって、もうすぐ十六歳です。何でもかんでも手を焼いてもらわなければいけないほど、子供じゃない。
させてやれば自分で出来るし、頑張ろうという意思もあるんです。
甘やかす必要はないんですよ。悪いことをしたなら、叱ってやって良いんです。ちゃんとわかるんだから」
泣きじゃくる弟をあやしながら言う言葉としてはまったく説得力がないのだが、智紀はそう言って両親を見返し、疲れたように大きくため息をつく。
と、玄関が開いて、祖母が顔を出した。
「ちょっとあんたたち。こんな時間に何を外で騒いでんだい。早く入りなさい。智紀、和樹。ご飯出来てるよ。冷めないうちに食べて頂戴」
その場の雰囲気をもろともせず、祖母はびしっと言いつけて、先に家の中へと戻っていく。
それを見送って肩をすくめ、智紀も和樹を促すと、祖母を追って玄関をくぐった。
後に残された両親が、不機嫌と困惑を同等の分量で混ぜ合わせた、複雑な表情で顔を見合わせていた。
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