16
職員通用口から、なるべく人の目を避けながら、外来棟三階の精神科診察室ならびにある、リハビリ施設に辿り着く。
いくつかの小部屋とぬいぐるみやいろいろな形のクッションが置かれた遊戯室、それに、一面に絨毯を張って転げても怪我をしないように万全の注意を払った、大きな部屋が一つ。
室内では、小学生くらいの年代のグループ、中高生のグループ、それにお年寄りのグループに大きく分かれ、それぞれに仲間内でふざけあったりして楽しんでいた。
智紀が部屋にやってきたのに一番に気づいたのは、服の隙間から縫い傷や火傷の跡が見え隠れする、体格は智紀と同じくらいにがっしりした、中学三年生の少年であった。
親に虐待を受けて、軽い人間不審に陥っている。西野という苗字の少年は、今は祖父母の家に預けられて肉親の愛を受けながら、懸命に治療に励んでいた。週に一度の外来リハビリ患者だ。
西野少年が、智紀を見つけた途端に走り寄ってくるのに、和樹は慌てて兄の後ろに身を隠した。
小さく震えて西野少年をおびえた目で見守る。
和樹にとっては、一番苦手なタイプだ。
体格の良い、中学三年生の、男子生徒。
一番最初の加害者が、ちょうどそんな外見をしていたはずだ。西野少年本人には罪はないが、和樹には今一番会わせたくないタイプだった。
「西野。あとでそっちに行くから、他のお友達と遊んでてよ。ちょっと、用事があるから」
よほど智紀を気に入っているのだろう。
追いやられるような言われ方に、え〜、と文句を言う。
それから、智紀の背後に隠れている、自分より少し年上の少年に気がついた。
「あれ? そいつ、知り合い?」
「弟。同年代苦手なんだよ。あんまりちょっかい出すな」
「そっかぁ。じゃあ、しょーがねーな」
苦手、という言葉で、自分が彼にとって良くない存在であることに気づいたらしい。
嫌々ながらも、仕方がなさそうに中高生のグループへ戻っていく。
西野少年を見送って、和樹は智紀の背後から出てくると、不思議そうに首を傾げた。それから、兄を見上げる。
どうやら、そんなに恐怖感が沸かなかったのが、不思議であるらしい。そんな表情に、智紀がふふっと笑う。
「ここにいる子達は、自分が経験していることだから、他人にも自然に気を遣えるんだよ。まぁ、実際に体験して、それを克服した人間でないと、難しいけどね」
世間一般にあふれている人々は、そんな経験をしている人のほうが圧倒的に少ないので、心の傷に苦しめられている人に対して、傷を広げない気遣いを知らない。
智紀も、数年前まではその中の一人だった。無神経な言葉もたくさん吐いてきた。
医者にかかるほどではないが、心に傷を受けて生活している人は案外多くて、そんな人たちを知らないうちに傷つけてしまっていただろう事に、今は深く反省している。
そういう意味では、この仕事を選んだのは、智紀なりの罪滅ぼしのつもりなのかもしれない。
小学生以下の子供のグループに囲まれて、トミ婆ちゃんがニコニコ笑ってそこにいた。
手には確かに紙芝居を抱えていて、子供たちに、それなぁに?とせっつかれている。
「トミ婆ちゃん。おはようございます」
「あら、山梨君。おはよう」
背後から声をかけられて、彼女はゆっくりと振り返る。
立っても和樹の肩ほどしかない身長で、白髪交じりのつむじが普通に見下ろせる。
歳はすでに70歳を越えていて、しかしその年齢を感じさせないほど、元気なおばあちゃんだ。
元は小児科の看護婦だったので、安心して子供を任せられる。
彼女は、人見知りするように智紀の背後に隠れている少年に気づき、下から顔を覗き込んだ。
「山梨君にそっくりね。弟さん?」
「えぇ。ちょっと、心を病んでいて、話はできないんですが。こいつ、見てもらって良いですか?」
「どうして? お兄さんと一緒の方が良いんじゃないの?」
「同年代、駄目なんですよ」
そう、と気の毒そうに理解を示し、それから、すぐにぱっと表情を笑顔に変えた。和樹に、直接話しかける。
「今日は、子供たちに紙芝居をしてあげるのよ。手伝ってもらっても、良いかしら?」
問いかけられて、和樹は相変わらず智紀の背後に隠れていたが、それから、小さく頷いた。
トミ婆ちゃんが差し出した手をとり、兄から離れる。
「嫌なことがあったら、兄ちゃんのところまで逃げてきて良いからな。じゃ、お願いします」
ぐりぐり、と頭を撫で、トミ婆ちゃんに頭を下げる。
和樹はこくんと頷き返し、トミ婆ちゃんも、はいよ、と請け負った。
中高生のグループまで近づいていって、智紀は心配そうに和樹を振り返る。トミ婆ちゃんに従って、和樹がそこに座ったのが見えた。何か指示されているのを、熱心に聞いている。
「良いのか? 弟」
突然、隣から声がした。
振り返ると、西野少年が心配そうに和樹を見やっていて、それから智紀を見上げる。
和樹の人見知りする様子や言葉が話せないらしい態度から、とても他人事とは思えなかったのだろう。
そんな西野少年の心遣いに、少し驚いた智紀だったが、それから肩をすくめて返した。
「何事も経験だ。俺も、どこまであいつにさせていいかわからないところがあってな。駄目だったら、逃げてくるさ。目の届くところにいるし」
「トミ婆ちゃんも一緒だしな。大丈夫か」
ふんふん、と相槌を打って返す。
彼も、トミ婆ちゃんには助けてもらった一人だ。だからこそ、納得もできるのだろう。
しかし、智紀の横に立って、腕を組んで、納得気に頷いていると、何だか偉そうだ。だから、その額にでこピンを食らわす。
「っんだよぉ。いってぇなぁ」
突付かれた額を覆って、西野少年は抗議の声を上げた。
その声が意外に大きくて、そばで円陣を組む中高生の一団に、迷惑そうに見上げられてしまった。
彼らの中央では、智紀と同じくボランティアでここに来ている半間久美がいて、西野少年の声に気づいて顔をあげ、智紀に気づいたらしい。あら、という、若干驚いた表情を見せた。
「来たんだ、ヤマちゃん。昨日来てなかったから、辞めちゃったのかと思ってた」
「何だよ、それ。吉永先生、何も言ってないの?」
問い返して、肩をすくめる。
吉永医師の、たまに抜けるところがあるそのキャラクターが、愛すべき性格の一つになっていて、憎めないのだが。同じ立場の人にくらいは、話しておいて欲しかったものだ。
「で? 西野は何やってんだ?」
中高生の一団は、全員が小さく丸まって、床に向かって熱心に何かをしている。暇そうに歩き回っているのは西野少年一人だ。
一応、ここはリハビリ施設である。課題が与えられて、それに取り組むことが目的だ。智紀たちボランティアは、その手伝いをするのが仕事である。
身体のリハビリと違って、心のリハビリをするのには、あまり動き回ることはない。
だってさ、と西野少年はつまらなそうに口を尖らせる。
「折り紙だぜ。折り紙。何が悲しゅうて、そんなガキの遊びに熱中せないかんの」
「お前なぁ。一応、リハビリに来てるんだろうが。
折り紙ってのは、指先を使って脳の活動を活性化させる、ボケ防止にも非常に効果のある手法なんだぞ。
文句言わないでやれよ。不器用でもいいんだから」
最後の一言が効いたらしい、ショックを受けたように胸を押さえてうめいてみせる。
が、表情が笑っているので、ふざけているのは一目瞭然だ。
と、西野少年と並んで立ってしゃべっていた智紀の背中に、誰かが体当たりする。
倒されかけて踏みとどまって、振り返った。
「和樹? どうした?」
そこにいたのは、泣きそうになっているのを懸命にこらえている、和樹だった。
智紀の腰に腕を巻きつけて、背中に顔をうずめている。
その向こう、小学生以下のグループでは、いかにも悪戯っ子な六年生が、トミ婆ちゃんに叱られていた。数人の子がこちらを不安そうに見守っている。
あぁ、からかわれたか。
そんな状況が、智紀を納得させた。和樹を胸に抱き寄せ、なだめる様に頭を撫でる。
「いいよ、無理しなくて。俺のそばにいな。みんなと一緒に、折り紙、やるか?」
聞かれて、和樹はうつむいたまま小さくうなづいた。答えを受けて、智紀が折り紙に手を伸ばす。
そこへ、再び西野少年が首を突っ込んだ。
「俺と一緒にやろうぜ。こういう細かい作業って苦手でさぁ。お前、器用そうじゃん」
苦手だ、とはっきり言われているにもかかわらず、どうにもちょっかいを出したいらしい。
西野少年は、そんな風に和樹を誘って、にかっと無邪気に笑って見せた。
おまえなぁ、と、呆れた口調で咎めかけた智紀は、その目の端に、弟が頷くのを見とめて、驚いた。
まさか、このタイプの少年の誘いを、受けるとは思わなかったのだ。
だが、考えてみれば、別に驚くほどのことでもなかったのだ。初対面で、和樹は西野少年に嫌悪感を抱かないことに、自分で驚いていたのだから。
「良いの? やった。向こうでやろうぜ。本と折り紙もらってくっから、先に行っててよ」
向こう、と指差された方は、窓が近くて日の光が差し込む、誰もいないちょっとした空間だった。
その場所を確かめて、和樹は西野少年を再び見つめ、こくっと頷く。それから、兄を見上げた。
許可を求めているその視線に、智紀は苦笑する。
「行っといで。仲良くな」
こくん。頷いて、和樹は自分から兄の手を離す。そして、西野少年に示された日のあたる場所にぺったり座り込んだ。
すぐに、西野少年もそこに座り、二人でそれぞれに折り紙を手に取る。
どうやら、見た目に寄らず、相性が良いらしい。
そう見て取って、智紀は少し寂しそうな優しい目を二人に向けると、今度こそ、自分の仕事に向かう。
智紀の相手は、和樹だけではない。ここに集まっている中高生や紙芝居に飽きてそこらを駆け回っている小学生も見なければいけないのだ。
結構重労働なのである。
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