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今日は全員早起きだったおかげで、珍しく揃って朝食をとり、和樹が両親を送り出すのに付き合う。
それから、智紀がこの夜から使う布団を天日に干し、祖母の家事の手伝いで家中に掃除機をかけた。
昼食後、診察時間を一般外来からずらして昼過ぎにしてもらっている、街中の総合病院へ向かった。
いつもは、祖母に連れられてバスを乗り継いでいる道のりが、車であっという間の距離だ。予約の時間より少し早めに着いてしまった。
和樹の担当医師は、この市民病院で精神科の部長をしている、藤堂というお爺さん先生だった。
若い先生や女医にも診てもらったのだが、一番なついたのがこの人だったらしい。
この年齢で精神科をしているだけのことはあって、人当たりも良く、熱心な先生だった。
「ほう。カウンセラーですか。なんだ、良いお兄さんがいたんじゃないですか」
どうして今まで連絡も取らなかったんだ、と医師は少し咎めるように家族を見やり、それから、二人の表情から複雑な事情を察したのだろう、困ったように眉をひそめる。
「それで、今後はお兄さんが付き添ってくれるということでよろしいのかな?」
「はい。そのつもりで、戻ってきました。ただ、病院のボランティアの仕事だけは、突然辞めることはできないので、しばらく和樹を連れて通うことになりますが」
「ふむ。それは、良いと思うよ。お兄さんと一緒ならば安心だろうし、少しいろいろな刺激を与えてやった方が、和樹君の治療にもなる。それに、君の仕事場なら、周りは専門家だからね、和樹君にも悪い影響はないだろう」
そう、どちらかというと歓迎したように、藤堂医師もその提案を許可した。
そして、和樹の身体の状態を調べ始める。風邪もひいていないし、食欲もある。身体的には実に健康体だ。
「うん。今回は元気そうだね。じゃあ、お兄さんもいることだし、リハビリを次の段階に進めようか」
次の段階、といわれて、和樹は少し身体を固くした。何をさせられるのか、と緊張している。
察して、藤堂医師は人柄から穏和な雰囲気を持っているそれを、さらに優しくして見せる。
「和樹君。次は、声を出す練習をしよう」
その指示に、和樹は首を傾げて返す。
智紀も、すぐには理解できずに首を傾げてしまった。
そう、と当然のように藤堂医師が頷く。
「何も、言葉を話せ、とは言っていないよ。和樹君には、それはまだ無理だろう。
だが、声は出るんだ。泣けるし、癇癪起こすときも喚いたりしてたし、日がな一日歌っていることもできた。
つまり、自然に出てくる声に障害はないんだ。
だから、次のステップは、自分の意思で声を発すること。
良い、悪い、わからない、を首を振ることで表現できるようになっただろう。
そこに、声をつけてごらん。
同じ首を振るでも、嫌なときもあれば、駄目なときもあって、違うときもある。
それを、口に出すんだ。
そうすることで、お兄さんにもより具体的に気持ちが伝わるだろう」
その説明は、半分は付き添っている兄に対するもののようだ。
途中から、和樹はその説明を理解できずに聞き流してしまっている。
説明を受けて、智紀はその趣旨を理解した。
なるほど、言葉をつむぎ始める第一歩だ。
子供が言葉を覚えていくのと同じである。
まずは、声を出す。
気持ちを相手に伝える。
相手の真似っこをする。相手にお願いをする。
説明をする。
そうして、人は言葉を覚えていく。
和樹の場合は、以前に使っていた知識が頭に残っているはずなので、それを表に引き出すのが目的なのだ。少しずつ、刺激を与えていこう、ということだ。
不安そうに兄を見上げる和樹を見下ろして、智紀はその顔を覗き込む。
「わかった?」
ふるふる。口を閉じたまま、首を振る。
その和樹の隣に、立ったままだった智紀はしゃがみこんだ。
下から、椅子に座っている和樹を見上げ、ゆっくりと言葉を伝える。
「声を、出してごらん。んーん、って」
首を振って見せながら、否定を示す声を出し、お手本を示す。
それに、和樹はやはり、口を閉じたまま首を振る。
否定というよりは、嫌がっている。
それは、兄弟でなくともわかるのだろう。智紀は藤堂医師と顔を見合わせてしまった。
「まあ、焦ることはない。来月また来るときまでに、少しでもできるようになっていたら大進歩だ。
お兄さん。根気のいる作業だが、焦らずゆっくり付き合ってあげなさい。
心身症は、何かきっかけがあれば、ある日突然治ってしまうこともある、予測不可能な病気だ。
そのきっかけも、何がそうなるのかは本人にもわからないことだからね。時間をかけるしかない」
「はい」
そこは、智紀も理解しているつもりだ。だから、頷く。
突然回復してしまう例も間近で見た経験があるので、実感があるのだ。
その反対に、どんなに時間をかけても全く前進できない患者もいるのが、この病気である。
いつ治るのか、と家族は聞きたがるが、そんなことは実際、神のみぞ知る領域なのである。
診察を終えて、和樹が祖母に手を引かれて診察室を出る。
その後をついていって、智紀は部屋を出る前に引き返した。
どうしたのか、と藤堂医師が不審げな表情でカルテを書く手を止めた。
「先生。和樹に処方する精神安定剤、内緒でビタミン剤か何かに変えられませんか?」
そのお願いは、患者の家族からされることとしては実に意外で、藤堂医師は一瞬目を丸くする。
それから、にっこりと微笑んだ。
「では、そうしましょう。
いや、来月あたりからそのように切り替えようかと思っていたんだがね。
精神安定剤自体、私もあまり患者に常用させたくないと思っている。ご家族の方がそれで良いというのであれば、そうしましょう。
ただ、一つ確認させてください。先月処方した分は、まだ残っていますか?」
「えぇ、確か、半分くらいは」
和樹に処方されている薬の残量や用法用量は、面倒を見るためには把握しておかなければならないことで、初日の夜のうちに確認済みだ。
その時は、結構減っているとは思ったのだが、だからといって、常用に耐えうる薬ではないことも知っている。
ならば、なるべく使いたくないのだ。だからこそ、途中で引き返してきた。
「では、ビタミン剤を処方しましょう。安定剤はできる限り使わないように心がけてください。
そう、君が厳重に管理した方がいい。他のご家族にも、まだ話さないほうが良いでしょう」
はい。了解して、頷いた。
和樹ほどの重度の患者を抱えると、家族にもノイローゼが出ることがある。
それは、仕方のないことだ。
病は気から、というわけではないが、精神安定剤がある、という手駒が、家族の精神安定剤になることもあるのだ。
それは、たぶん、山梨家にも当てはまる。昨日の母の錯乱した声が、証拠の一端だ。
智紀が自分の用件を終えて部屋を出ようとすると、今度は藤堂医師が声を掛けてきた。
「一つだけ、注意してください。
たくさんの人に会わせるのは良いですが、必ず君がそばについていること。
それと、若い年代の人は和樹君にはまだ無理だから、できる限り、お年寄りや小学生くらいの子供にだけ触れさせてください」
何故、といった説明は、藤堂医師はしなかった。
それに、言われてすぐに、智紀も理由を理解する。
和樹は、とにかく同年代の人を恐がっている。
原因がそれなのだから、まだまだ回復には程遠いはずだ。
下手をすると、パニックを引き起こす。中高生などは以ての外なのだ。
了解して、今度こそ、智紀はその部屋を出た。
診察を終えて出てきた外来の待合室は、実に閑散としていた。
薬待ちの患者が幾人かソファにいるが、午前中の混雑時間に比べればその差は歴然としている。
薬を受け取りに行ったのは、智紀である。
どうせ、薬が変わったことは薬剤師から言われる。
診察時には何も言われなかったのに、薬が変わったら、いくら祖母でもいぶかしむだろう。
後で薬が変わった事は言わなければならないが、ここで一悶着起こされても困るわけだ。
病院を出ると、幾分西に傾きかけた太陽が、まだ燦々とその光を地上へ投げていた。
時刻は夕方。
「祖母ちゃん、買い物は行かなくても大丈夫?」
和樹の前では、智紀も普通に祖母の孫だ。
和樹に気を遣わせないためには、自然を装わなければならない。
それは、祖母も理解しているのだろう。智紀の砕けたしゃべり方に嫌な顔一つせずに、大丈夫だと答えた。
基本的に、買い物は週に一回、両親が車で街中のスーパーまで買出しに出かける。
それは、和樹を一人で家に残しては行けないから、そうするしかないのだ。
じゃあ、まっすぐ帰ろう、と言って、智紀は全員を車に乗せ、家に向かって出発する。
帰りの車内で、和樹は流れていく外の景色を熱心に眺めていた。
時折、何かが和樹の意識に興味を持たせるらしく、流れていくものを見送ったりする。
そんな楽しそうな仕草を、後部座席で和樹の隣に座る祖母が、優しく見守っていた。
バックミラーで後ろの二人の様子を時々確認して、智紀は智紀で、嬉しそうに微笑んでいた。
それだけ、和樹の仕草とそれを見守る祖母の優しい目が、微笑ましく見えたのだ。
しばらく無音で車を走らせていて、智紀はどうにも音が寂しくなったらしい。
カーステレオのスイッチを入れた。
はるかの持ち物である入れっぱなしのCDが、エンジン音にかき消されない程度の小さな音で鳴り始めた。
彼の趣味は、智紀に近いものがある。
今時は流行物になってしまった、いわゆる癒し系の音楽が好きなのだ。
テレビCMなどで使われた音源を集めたオムニバスCDは、出るたびに集めているほどである。
ちょうどスイッチを入れたときも、流れてきた曲はシチューのCMソングだった。
今夜はシチューの日だから早くおうちへ帰ろう、というような歌詞の曲である。ボーカルの女性のかすれた声が、そこはかとなく郷愁を演出している。
その曲は、和樹もCMで使用されている部分くらいは知っていたらしい。
曲にあわせて、知っている部分だけ、一緒に歌っている。
それ以外の部分も、主旋律を口ずさみながら、曲にあわせて身体を揺らす。
元々、きっと歌が好きなのだ。
だから、話すことは出来なくても、声を出すことすら拒否しても、歌は歌える。口ずさめる。
このあたりから取っ付いて行ければ良いな。
歌っている和樹を横目で見やって、智紀はそんな風に近い将来の予定を立てるのだった。
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