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 部屋の片づけを終えて、押し付けるように渡されたプジョーの鍵をありがたく受け取り、智紀は次に勤務先の病院へ向かう。
 日曜日である今日、出勤しているのはシフトで当番に当たっている医師や看護士だけで、外来がない分静かな院内は、現在昼食時間であるらしい。

 日曜日で仕事は休みのはずのボランティアの青年の突然の訪問に、担当の精神科医は驚いた様子だった。
 それから、彼のただならぬ雰囲気に気づいた。
 食事もまだだと聞いて、病院の食堂へ促す。

 弟の心身症の状態を聞いて、医師もさすがに専門家で、それがいかに大変な状況であるかを理解したらしい。

 自分の目の前に置かれている不味いカレーうどんを不味そうに啜って、それから、懇意にしている熱心な青年に目を向ける。

「それで? 君はどうするのだ?」

「弟を、助けたいんです。うちは、両親共に共働きで、祖母も同居なのですが、弟の世話までは手が届いていなくて。いつも部屋に閉じこもってぼんやりしているらしいんです」

「それでは、症状がさっぱり良くならないだろう。じゃあ、君がそばにつく、ということだね」

 ついでに、それによって彼の手が借りられなくなることも理解したのだろう。医師は困ったように眉を寄せた。

 医師としても、有償ボランティアとはいえ、これだけ熱心になってくれる青年を、手放すのは惜しい。
 だが、彼の状況はそうも言っていられないものだ。
 しかし、彼を慕っている入院患者や通院患者の子供たちから、突然彼を取り上げるわけにもいかないだろう。
 ここは、悩みどころだ。

「どうだろう。週に数日だけ、通ってくれないだろうか。もちろん、弟さんも一緒に。うちとしても、今君に離れられるのは困るし、だからといって弟さんの症状も無視できるものではない。妥協策としては妥当かと思うが」

 それに、通ってくることによって、弟の外出の口実と、同じような症状を持つ友人を作るきっかけにもなる。

 それは、智紀にとってもありがたい申し出だった。考えるまでもない。

 よろしくお願いします、と言って智紀は深々と頭を下げる。
 医師は、満足げに頷いて答えた。




 勤務先の問題や連絡先などをすべて片付けて、何の因果か自分のものになったプジョーを駆り、東京都を西へ横断する。
 見慣れた田舎道を通り、初めて車で自宅の門をくぐった。

 玄関を開け、智紀がまず最初に耳にしたのは、誰かの泣き声だった。
 それから、母のいらついた甲高い声が聞こえてくる。

 耳にした途端に、智紀は靴を脱ぎ捨て、家の中へと走りこんだ。
 階段を駆け上がり、開けっ放しの和樹の部屋に飛び込む。

「和樹っ? 母さんっ?」

 そこにあったのは、大きな声を出して泣きじゃくる和樹と、どうしたら泣き止むのかわからず途方にくれる母の姿だった。

 唐突に現れた第三者に、和樹が敏感に反応する。
 涙でくしゃくしゃの顔を上げ、驚いて兄の顔を見つめている。
 ついで、母もやっと現れた長男の姿に、すがるような表情を見せた。

「一体どうしたんだ? ん?」

 近寄った途端に抱きついてきた和樹を、智紀は危なげなく受け止め、その涙に濡れた顔を見下ろす。
 それから、指で涙を拭ってやった。

 それから、弟がそんなに泣いていた理由に思い当たる。

 目が覚めて、家の中のどこにもいない兄を探して、黙って置いていかれたと思い込んだのだ。
 実際、昨夜寝かしつけたときも、出かけることは話さなかったし、家を出たときはまだ和樹は夢の中だった。
 母には言付けて出たが、それでも、自分が迂闊だったとしか言いようがない。
 こと、自分の事に関しては、和樹も両親の言葉すら信用しないのだ。

「ごめんな。何も言わないで出てって。兄ちゃんが悪かったな」

 肯定するように自分の胸にぐりぐりと頭を押し付ける和樹を抱きしめた。
 涙で薄手のシャツが濡れても、智紀はその冷たい感触に、自分を責める。

 昨夜も、自分の姿が見えないだけで食事すら取ろうとしなかった和樹だ。
 その彼を置いていくとは。
 今の和樹の状況を想像できなかった。
 まだまだ自分は修行が足りない。そう、思い知る。

「もう、和樹に何も言わないでどっかに行ったりしないから。ごめんな、和樹。不安だったな」

 こくこく。何度も頷いて、和樹はぎゅっと兄にすがりつく。
 もう、突然目の前から消えてしまわないように、離れていかないように、そんな思いが伝わってくる。
 だから、しっかりと抱きしめ返すのだ。二度と、和樹に不安な思いをさせないように。

 長男が帰ってきて、和樹が泣き止んだのにほっとしたのだろう。
 母は抱き合う二人を置いて、そっと部屋を出て行った。





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