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ようやく満腹になって幸せそうな和樹を風呂にやって、智紀は再び、両親と祖母に呼びつけられた。
「和樹がなんと言おうと、お前には明日、出て行ってもらう。和樹のためだ。お前などの不潔な考えであの子を巻き込むのは許さん」
確かに、認めてもらえるとは、最初から思っていなかった。可愛い息子が同性愛者になるだけでもとんでもない話なのに、その上相手が兄とくれば、近親相姦の汚名も着ることになる。親として、許せるはずもないのだ。
自分だって、自分の息子たちがそんな関係になってしまったら、年かさである兄を家から追い出そうとするだろう。
まして、兄弟の年の差が十歳ある。弟はまだ親の庇護から抜け出せない年だが、兄はもうとっくにいい大人だ。物事の善悪など、今更諭されるような年ではない。
わかっているからこそ、これをどうやって覆すか、理解とはいかないまでも黙認してもらえるのか、判断がつかない。
自分のことは良い。だが、弟まで糾弾の対象にされては困る。
今でこそ、自発的にキスをしてくれるくらいに好いてもらえているが、最初はやはり、自分が巻き込んでしまったのだ。
責任なら、取り切れないくらいある。
だが、ここで引き下がるわけにはいかなかった。食卓に自分がいないだけで荒れた和樹だ。
これで、そばにいると約束した自分が約束を破ったら、一体どうなってしまうのか。恐ろしくて想像もしたくない。
「和樹のためというなら、俺を戻してください。俺は、和樹のそばにずっといる、と約束してしまいました。その俺が、家に戻って来れなければ、あの子はまた傷ついてしまう」
それはしかし、自分の立場の問題を解決しないままに勝手にした約束だ。それを反故にして兄を悪者に貶めても、両親には何の痛手もない。
それはわかっていて、あえて自己弁護に使った。
そのために、先に和樹に会って自分を認めてもらって、既成事実を作ってしまおうとしたのだ。今更、引き返すつもりもない。
「和樹に恋をする男ではなく、ただ和樹を弟として愛する兄であったとしても、受け入れてはもらえませんか」
「だが、お前が和樹をそんな欲望の目で見ていることも事実だ。私は、羊の皮を被ったとしても、狼を飼う気はない」
この、和樹を愛している慈しみの目が、父に言わせると欲望に見えるらしい。
立場が変わっただけで、こうも見方が変わってしまうものか。智紀は、自分の親でもあるはずのこの父が、信じられなかった。
父親として、和樹をそれだけ愛してるのだ。
それは、わかる。
だが、だからといって、同じく息子である智紀を、まるでどこの馬の骨とも知れない人間のように言うのは、理解できない。
これでも、大学三年の冬までは、ちゃんと息子として愛してくれていたのに。
和樹との関係に気づいた途端に、手のひらを返すように他人扱いをする。その変わり身の速さが、智紀にはついていけない。
「それに、言ったはずだ。お前など、私の息子ではない。和樹の兄、などという面をするのはやめろ。見苦しい」
「でも。血縁上、和樹の兄であることは事実です。
それに、じゃあ貴方は、熱でうなされる自分の妻を見て欲望を感じるとでも言うんですか。
俺だって、愛する人が病気で苦しんでいるのに、その相手に対して欲望で突き進むような非道な真似はしません。
助けてあげたい。守ってあげたい。
彼が俺を求めてくれたんです。だったら、俺は俺に出来る限りのことを彼にしてあげたい。そう思うのは、人として当然でしょう」
しかも、それが出来る人間であると自負している。
大学で教育学を学んだおかげで、教職と司書資格と認定心理士試験受験に必要な単位は在学中に取得済みであったし、必要を感じて帰国後真っ先に認定心理士の資格は取得してある。
今の資格だけで、本来なら、今や全国の小中学校に義務付けられているスクールカウンセラーとして、一生涯の職として働くことは十分可能なのだ。
だが、できるなら、命の危険すら伴っている重度の心身症をおった、和樹のような子を助けてあげたいと思う。
戦争で苦しんでいたその現場を目にした経験があるから、余計にそう感じるのだ。
それが、この家を出て海外へ出て、自分が得た未来の展望だった。
だから、自分に最も身近な相手が同じように苦しんでいるのを、放っておけない。
自分がその原因の一端になっているなら、なおさらだ。
「先生に言われてるんじゃないですか? できるだけ、外の刺激に触れさせろ、って。今のように、和樹がしたいようにさせていたら、甘やかしていたら、症状は良くなりません」
「しかし、私たちにだって生活がある。和樹がこうなってしまった以上、余裕を持って生活できる程度の収入を得なければならん。となれば、日中は和樹が家に閉じこもってしまうのも仕方がないだろう。祖母さん一人では和樹を散歩に連れ出すことも出来ない」
「だから、それを俺がやります。食事と住む場所だけ用意していただければ、あとは必要ありませんから」
それは、自ら、他人として扱ってもらってよい、と言っているのに他ならない。難しいところだった。
確かに、そうしてくれる人がいるのは助かるのだ。
月に一度検診に行くたびに、さっぱり改善しない和樹に医者も心を痛めている。
毎回、できる限りでよいから外へ連れ出すようにと指示され、叱られている。それを、実践してくれるというのだ。
この兄の下心さえなければ、歓迎すらするところなのだが。
いかんせん、それは智樹と和樹を二人きりにすることに他ならない。
どちらの事情を優先するべきか。問題は、そこだった。
先に反応したのは、祖母だった。
男同士で、兄弟で、というところに嫌悪感は当然あるものの、そうは言っても二人とも可愛い孫だ。
それに、年の功ということもあるのだろうが、この孫の言葉や表情に、嘘や取り繕いが見えない。信用するに足るものであった。
「智紀。その言葉に偽りはないね?」
「ありません」
はっきりと、否定する。
その、この家を追い出される前までは見たこともなかった、本気の男の目に、祖母は軽くため息をつくと、了解したように頷いた。
「少し、試しにやらせてみたらどうだい? 和樹がもう少し元気になってから、二人のことは改めて考えれば良いことだ。それより、和樹の心のケアが最優先だろう。幸い、この子の自己申告を信用するなら、専門知識を持っているわけだ。喉から手が出るほどありがたい相手じゃないか」
試しに、というくらいだから、全面的に信用してくれたわけではないのだろう。だが、この祖母の味方は、ありがたかった。父も、祖母には頭が上がらないのだ。
そんな意外な応援を受けて、父も大きなため息をつく。
「一ヶ月だ。それだけ、様子を見よう。その間に和樹に何の変化もないようだったら、お前を追い出す。それでいいな?」
「わかりました」
望むところだ。
一ヶ月で何が変わるとは言えないが、それだけあれば、和樹と友好を深めるには十分だろう。
お互いに信頼関係が出来れば、その後の治療もスムーズに行くはずだ。
ようは、和樹の主治医に、自分の存在を認めさせれば良いのだ。
自分がいることで和樹の症状が安定するのであれば、それを医者に認めさせ、引き離さないように言ってもらえば良い。
第一目標が、それで定まった。それだけで、十分だった。
早速、退室の許可を得て居間を出、階段を上っていく。
胸ポケットにタバコと一緒に入れてあった携帯電話を引っ張り出し、電話帳を探っていく。
それから、通話ボタンを押した。
「あぁ、俺。悪いね、仕事中に。頼みがあるんだけどさ」
それは、そんなぞんざいな口で許されるほどに仲の良い相手で、智紀は和樹の部屋の横並びにある、すでに物置部屋と化している元自室で、電話口の相手にお願いを話す。
相手に快くはないが了解の返事をもらって、部屋を出た。
ちょうど、風呂上りで戻ってきた和樹と、廊下でばったり会う。
突然、部屋から出てきた兄に、少し驚いたらしい。
ぐしょぐしょの頭にバスタオルを被って戻ってきた彼が、目を丸くして兄を見上げる。
その上目遣いの目線に、そんなつもりはなくても、下半身が勝手に反応しかける。
勘当すら受けいれるほど惚れた相手に、風呂上りの濡れた髪で、甘えた表情で見上げられたら、それに抗うことは難しい。
が、その欲望を、気合で押し殺す。
「こら、和樹。そんな頭びしょびしょで。風邪引くぞ」
それは、暴走しかける自分を叱る意味も込めていて。
和樹が言われて頭のバスタオルをワシャワシャと動かしだすのを、自然に奪い取る。
そうして、少し乱暴に、髪を拭ってやるのだった。
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