8
食事が終わった頃を見計らって居間に戻ると、和樹は腹が減っていたにも拘らず、よそってもらった飯や味噌汁、煮付けや玉子焼きなどを、ほとんど手を付けられないまま残していた。
突然帰ってきた兄の姿が見えなくなったせいなのか、いつもほとんど食べないのか。
両親や祖母はそんな和樹を見て、しかし無理に食べさせようとはせずに、放っておいている。
取り皿に山のように盛られたそれは、彼を思う気持ちが伝わってくる。食べて欲しいのだろう。だが、どうやって食べさせたら良いものやら、彼らには頭痛の種だ。
戻ってきてそんな状態を見た智紀は、一つ大きくため息をつく。
和樹のそばに寄って行って、その頭をぐりぐりと撫でた。
「食わないと大きくなれないぞ」
突然頭を撫でられて声をかけられて、驚いたらしい。和樹ははっと顔を上げ、兄を見上げた。
それから、泣きそうな顔になる。
「どうした? 兄ちゃんがいないと不安か?」
腹は減っているのだろう。茶碗と箸を手に持って、しかし、それを胃におさめようという動きがない。
兄にそう問われて、和樹は一度自分の手元の茶碗を覗き込み、それを兄に差し出した。
そばに腰を下ろした智紀が、その仕草に、一瞬だけ苦しそうな顔になる。
「俺はいいから。お前が食え。少し太らないと、体力続かないぞ。お前、軽すぎ」
それは、食卓に兄の姿がないことが、ずっと一緒にいるわけではないらしいという判断に繋がって、不安を掻き立てられていたことを示すものだった。
一緒に食べよう、もしくは、お兄ちゃんも食べて、という意思表示だ。
この時間である。自分も家族も食事をしているところに兄がいないのは、どう見ても不自然だ。
兄に拒否されて自分の手元に戻したそれを、和樹はもう一度見つめる。
唇を噛み締め、悔しそうな表情で、親の敵でも見るように自分の茶碗を見つめていた。
それから、何を思ったか、両手のものを父の方へ投げつけた。
茶碗から飯が飛び散り、辺りに散らばる。父の膝に茶碗がひっくり返り、箸がその周りに二本、乾いた音を立てて落ちた。
「和樹っ」
ぺち。
和樹の突然の行動に、誰一人として動けない中、癇癪を起こして泣きかけた和樹に、叱りつけるように強く名を呼び、その頬を叩いたのは、隣に座った智紀だった。
智紀に叱られたのが、ショックというよりも驚きだったのだろう。出かけた涙が引っ込み、目を見開いて兄を見返す。
何故叱られたのか、わかっていないのだ。もしくは、この兄に叱られるとは思っていなかったのだろう。
しばらくして、叩かれた頬の痛みに気づいてそこを手で押さえ、目に涙をためていく。
声も出さずに泣き出したのに、智紀は自分を落ち着けるように深く息を吐き出すと、その和樹をそっと抱き寄せる。
「食べ物を投げちゃダメだろ。それに、人に向かって投げるのもダメ。和樹だって痛いのは嫌だろ?」
言い諭すように和樹の耳元に囁いて、すがり付いて泣いている和樹の背を、幼い子供にするように、ぽんぽんと優しく叩く。
和樹が泣き出したことで、ようやく動き出したのは、父であった。
和樹と自分の間に散らばった飯粒を、拾っては茶碗に戻す。
もうすっかり冷めていたそれは、手で掴んでも温い温度でしかなく、それだけの時間が経った証拠でもあった。
やがて、祖母も立ち上がって飯粒を片付け始めた。
母は、台所へ行って雑巾を取ってくる。
片付けついでに、食事のしたくも片付け始めた。少し残っている煮物や炒め物を小皿に移していく。
和樹のために用意した取り皿も片付けようとした母に、智紀は顔を上げた。
「母さん。それ、和樹に食べさせて」
言われて、母はそれと和樹を見比べ、取りかけた手を下ろす。そうして、反対に台所に入っていくと、新しい茶碗と箸を持って戻ってきた。和樹の前に揃えて置く。
「ほら、和樹。腹減ってるんだろ? 飯、食え」
言われて、やっと和樹は兄から離れ、再び食卓に目を向ける。自分の周りにだけ残された食事に、また寂しそうに眉を寄せ、兄を見上げた。
これは、どうあっても、自分も食事をしないと食べそうもない。
和樹の視線にそう感じて、智紀は肩をすくめる。
今は無理やりにでも食べさせないと、甘え癖がついてしまう。
だが、この家で食事を取らせてもらえるのかは、まだ微妙だ。自分の立場の問題が、解決していない。
「母さん。俺ももらっていい?」
食べたそうに、新しい茶碗を眺めている和樹が、それでも手を出そうとしないのに、母は嫌そうに眉を寄せたものの、頷いて台所にまた戻っていった。
茶碗と箸を母の手から受け取って、智紀は和樹に見せるように箸で茶碗を叩いた。
チンチン、と高い音が出る。その音に促されて顔を上げて、和樹はやっと嬉しそうに笑った。自分も茶碗と箸を取る。
「ゆっくりちゃんと噛んで食えよ」
頷いて、しかし少し慌てた様子で箸を動かす。そんな弟の様子に、少し痛そうに微笑んだ。
[ 8/55 ][*prev] [next#]
[mokuji]
[しおりを挟む]戻る