弐の1
次の日。
すばるは勝邸にいた。
会いに来た相手は、すばるが今女装をして暮らしていることを知らないが、それでもすばるはあえて女装したままで出掛けてきている。
相手は最初、若い娘にしか見えないすばるを見て驚いたようだが、事情を説明すると納得して笑ってくれた。
この男が、すばるが昨夜言った、坂本竜馬である。
現在は勝邸に居候している書生、坂本正己と名を変えていた。
すばるも年相応にはどう見ても見えない姿形をしているが、正己もまた年相応には見えない姿形をしていた。
どう多めに見ても、二十四、五才にしか見えないのだが、数えてみると、今年ですでに四十九才である。
「へぇ。伊藤惣瑞、ねぇ」
「聞いたこと、ありませんか?」
「さぁ。覚えがないなぁ。あなたがそんなに言うほどの相手なんですか?」
「私もよくは知らないんですけど。ただ、藤堂さんが勝てる自信がないと言ったということは、それだけ強いんだろうな、と」
それに、と昨夜のからくり人形襲撃事件の話をする。
襲撃事件そのものは、昨夜のすばるや弘一郎の態度からもわかるとおり、どうということはなかったのだが、問題はそういうことをする人間が、他にもたくさんいそうだということなのだ。
あんなからくり人形でも、三体以上一度に襲撃して来られたら、そう悠長に構えてもいられなくなる。
つまり、それなりの人手が欲しいのだ。猫の手、ではなく、役に立つ人の手が。
手を貸していただけませんか、と言ってすばるは正己を見つめた。
正己が腕を組む。
「手を貸してやっちゃあどうだい」
そう横から声をかけたのは、この屋敷の主人、勝海舟だった。
もうすっかり白髪になって、歳を感じさせられる。
だが、その目だけは往年の面影を残していた。
きらきらと光を持っている。自分の人生を意欲的に生きている人の目だ。
「そうは言いますけどね。役に立てるならいいですけど、足を引っ張っちゃあ迷惑をかけるだけでしょう?」
この十五年、一度も刀を手にしていないのだから、と正己が困ったように言う。
それを聞いて、勝海舟はわっはっはと楽しそうに笑った。
「そんなら、毎日この庭で素振りの練習をしているのは誰かねえ」
「……知っていらしたんですか」
あっさりと言われて、正己はびっくりしたようだった。
何しろ正己が庭に出て素振りをしているのは、日も明けやらぬ早朝なのである。驚くのも無理はない。
「坂本竜馬殿」
「やってやんなさいよ。こうして頼ってきてくれるんだ。ありがたいことじゃねぇか」
勝海舟まで、説得に協力してくれる。
それは、おそらくはすばるが必死な表情をしていたからだ。
正己はそんな二人を交互に見やって、やがて肩をすくめてみせた。
「その男、この国にとってあまり良くない存在であるのは確かなんだね?」
こくり。黙って頷く。
そのすばるをじっと見つめて、それからにっこりと笑ってみせた。
「勝殿。ちょっと行ってきます」
「おう。気をつけて行ってきな」
勝海舟は、満足そうに笑って、そう答えた。
おそらく、海援隊を結成したまだ若かった坂本竜馬を送りだした時も、こうやって笑っていたのだろう。
[ 7/39 ][*prev] [next#]
[mokuji]
[しおりを挟む]戻る