壱の5
日も暮れて屋敷の中に弘一郎とすばると八十助だけになってしまうと、すばるは女という仮面を脱ぐ。
突然の来客に備えて着物はきっちり女物だが、堂々と胡坐はかくし、お上品な物言いなどどこかへいってしまう。
当然、偽装親子もここでは無効だ。
「て、また渡されちゃったんですよねぇ」
上野の道場主に見合いの話を持ち込まれたことを話して、すばるは楽しそうに笑った。
彼にすばるという名を付けたのは、弘一郎である。
夜空に輝くあの昴のように、明るくいてほしいと願って付けられた名なのだが、今では名は体を表すとでもいうようにしっくり合っている。
「ふーむ。いっそ出戻りだからとでも言っておいたらどうだ?」
「うーん。効果なさそうですけどねぇ」
「すばるさんほどの美人なら、出戻りでもかまわない、ってね」
「お、八十助も言うじゃないか」
「すばるさんほどの美人なら、俺もお願いしたいもんな」
八十助も、ここに来てもう八年になる。
弘一郎もすばるも使用人扱いなどしたことがないから、いつのまにか家族同然の立場になっていた。
食事も一緒に取るし、しゃべり口調もあまり飾らない。
だからといって、尊敬していないのかというと、そんなことは決してないのだ。
弘一郎もすばるも八十助より一回りは軽く年上だし、剣の腕もまるで足元にも及ばない。
剣に命をかけたか否かという違いは、かなり大きいらしいのだ。
年令といえば。
すばるが本当に沖田総司であるとすると、その年令は、今現在三十八才ということになる。
偽装の父親である弘一郎は現在四十六才で、その差は八才しかない。
だが、親子だと紹介されて疑いの目を向けた人は、今までの実績では皆無だ。
ということは、すばるはどうやら外見年令がまったく増えていないということなのだ。
それがなぜなのか、すばる自身もわかってはいない。
ただわかっていることは、十五年前からまったく年を取っていないということだけである。
まあ、自慢の美貌が衰えていかないだけマシなのかもしれない。
「で、山県さん、何ですって?」
ちょっと挨拶をして出ていってしまったすばるが、その用件が気になったらしく、偽装父親に問い掛ける。
弘一郎はその問いを受けて、とたんに険しい顔つきになった。
「沖田、伏見の戦いの折に現われた、俺たちと同じく人斬りと呼ばれた男、覚えているか?」
「ええ。確か、伊藤惣瑞とかいう元医者だとか」
幕府方には噂でしか知られていない話だが、その伊藤惣瑞という男、倒幕方に伏見の戦いで突然姿を現し、敵どころか味方までも恐怖のどん底に突き落としたという、まさに夜叉というべき男であった。
あまりの恐ろしさに、伏見の戦いを終えてすぐに、味方からも追放されたという話だ。
「その追放というのが、実は国外への追放でな。日本国内に置いておいては、後々何が起こるかわからないだろう?」
「国外だって同じでしょう。鎖国は解かれてしまったんだし、貿易船にでも潜り込めば簡単に帰ってこられるはずです。…って、まさか?」
「そう。帰ってきたんだよ。はるばるメリケンから」
「メリケン? そりゃまた、遠いところから」
うわあ、と八十助は感心して声を上げる。
すばるは軽く眉をひそめた。
「引き受けるんですか? 藤堂さん」
引き受けるって、何を?と八十助は首を傾げる。
弘一郎は大きな溜息をついた。
山県が持ってきた頼みというのは、結局、伊藤惣瑞退治に他ならなかった。
山県ほどの人間が、今では一介の剣術師範である弘一郎に頭を下げにきたのだ。
一筋縄でいくような用件でないことは想像がついたが、予想以上に面倒な頼みごとであった。
つまりは、維新志士の数少ない汚点の一つを、なるべく他人に知られないうちに消してしまいたいと、そういうわけなのだ。
軍隊を動かすには事を公に晒さなければならない。それを避けるなら、こうするしかないのである。
「まあ、沖田には関係のない話だ。倒幕側の昔犯した過ちの付けを払わなければならないだけのこと」
「俺には関係なくても、私には関係のあることでしょう? 藤堂さんの娘ですからね。とばっちりは確実です。で、引き受けるんですか?」
引き受けるなら手伝ってはやるつもりらしい。
そう見て取って、弘一郎は真面目な顔になり、頷いた。
「あの男だけは、私にも勝てる自信がない。危険だと感じたら、私のことなどかまわず逃げると誓えるか?」
「……冗談でしょう? あなたがついてこいというから、生きる理由もできたんです。あなたのいない世界に生きていられる俺だとお思いですか。俺を二度も地獄の底に突き落とすおつもりなんですか。自分を守って死んでくれと言われた方がよっぽどマシですよ」
死んで土方の元へ行くこと以上に幸せを感じられることなど、今でもありはしないのだ。
死を恐れる理由などすばるにはない。
土方のいない世界にこうして生きているこの現実こそが、すばるにとっての地獄なのだ。さらに恐ろしいことなどあろうはずがなかった。
「やはりまだ、ふっきれないか」
「俺を賽の河原まで助けだしてくれた人が何をおっしゃいます。三途の川の渡し賃なら足りてますからね。あなたが手を離せばいつでも舞い戻れますよ」
まるで弘一郎を脅迫しているようだ。
そう気づいて、すばるはくすりと笑った。
「俺の心配は、俺に剣で勝ってからしてください。自分の身くらい自分で守りますよ。これでも幕末の動乱を剣一本で生き抜いた人間ですよ、俺は。ちょっとは頼りにしてもらえませんか」
頼りにしたいのはやまやまだがなぁ、とまだ渋っている弘一郎に、すばるはその件はもう解決したとばかりにくすくすと笑ってみせた。
結局、どうやら助太刀の押し売りをすることに決めたらしい。
「で、具体的に、どこまでわかっているんですか? 居場所とか、何を企んでいるかとか、わかっていないことには何も行動できないでしょう」
聞くべきことはちゃんと聞いてくるところは、さすがに新選組一番隊組長を任された男だ。
沖田総司。やはり侮れる相手ではない。
「山県殿の言うには、どうやら伊藤には後ろ盾があるらしいのだ」
「後ろ盾? メリケンの武装商人ですか?」
「……何も言わぬうちからどうしてそう的を射るかなあ。まったく、沖田が病で途中退場してくれなければ、この維新はならなかったぞ」
しみじみと言う弘一郎に、どうやら図星だったらしいと知って、すばるは少しうれしそうに笑った。
あまりうれしい話ではないが、当たったことにくらい喜んでもいいだろう。
「助太刀してくれそうな人を一人知っています。といっても十年ほど前の連絡先ですから、まだそこにいるかどうかはわかりませんが。頼んでみましょうか?」
「……背後を任せられる相手なのか?」
もともと沖田総司は幕府方の人間だ。知り合いもほとんどが幕府方、しかも元新選組の者であろう。
つまり、今の政府にとっては敵である人間だ。
味方につけて後で伊藤の方に寝返られてはかなわない。
生き残ったという新選組三番隊組長斎藤一など、恐ろしくて背中を任せられない相手だ。
その危惧を悟ったのかどうか、すばるはそんな弘一郎の心配をよそに、平然と笑った。
「どちらかといえば、倒幕派の味方の方です。心配は無用ですよ。この国の将来を本気で心配なさっている方ですから。名前くらいはご存じでしょう? 坂本竜馬さんです」
「……何?」
坂本竜馬だと?
弘一郎は問い返して絶句した。
その名前、維新がなる前に亡くなった大人物の名前ではないか。
「そんなはずはないだろう。京都で亡くなったはずだぞ。しかも、その息の根を止めたのは新選組だとの噂ではないか」
坂本竜馬とは、この明治維新をなした薩長同盟の立役者であり、ひいては現在の日本を作る基礎を築き上げた人の名である。
大政奉還がなされた直後に京都の近江屋で暗殺されたはずだが、どうしてここで名が出てくるのだろうか。
「俺もね、死んだものと思っていたんですよ。ところが、ちょうど藤堂さんと会ったあの河原で、偶然会ったんです。俺も驚きました。幽霊でも現われたかと思ったのですが、そう言ったら笑われてしまいましてね。近江屋での一件、替え玉だったそうですよ。中岡さんも坂本さんも生き延びていたとか」
「今は、どこに?」
「勝海舟殿のお屋敷」
何だとっ!
またも声を上げてしまう。
勝海舟はそもそも幕臣であった人だ。確かに坂本竜馬に肩入れしたこともあったようだが、それにしてもその身柄をかくまうほどとはとても思えない。
「勝殿はいい人ですね。敵味方関係なく、すべて一個の人間として見てくださる。俺も一度お会いしました。優しいお声をかけてくださる方ですよ。さっそく明日、訪ねてみます。人手は多いほうが良いでしょう?」
「それはまあ、その通りだが」
本当に大丈夫なのか、と弘一郎はまだ不安な様子だ。
すばるはその弘一郎の慎重な姿勢に、くすりと笑った。
「死んだはずの人間でしたら、ここにも一人、いるでしょう? 大丈夫ですよ。一緒に並んで釣りをした仲です。と言っても、俺はまだご存じの通り上の空でしたけど。ああ、そういえばおかしいですね。上の空だったのに、どうして覚えているんだろう」
なんて言いながら、すばるはくすくすと楽しそうに笑っている。
本当のところ、坂本竜馬がすばるの隣で一緒に釣りをしていてくれたおかげで、すばるはその二年後、藤堂とああして話すことができたのだ。
坂本竜馬がはじめてすばるを見つけたときは、すばるは完全に言葉を失って、本物の人形になっていたのである。
その人形に根気よく付き合って話しかけていたおかげで、今のすばるがこうしてここにいるのだ。
恩人なのである。そろそろ訪ねていっても良い頃だった。
「明日、行ってきます。ですから、置いていかないでくださいね」
置いていかれたら泣いちゃいますよ、とすばるは冗談めかしてそう言って笑った。
冗談めかしてはいたが、おそらくそれはありうべき未来でもあった。
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